最近よく聞くのが「失われた30年」とか「失われた50年」とか衰退して行っている日本の現状です。
大阪・関西万博も無事終了し、行かれた方は「楽しかった!」の連発でした。
次回2030年はサウジアラビアのリヤドで開催されますが、3回目のチケットは取れなくて2回大阪万博に行った知人が、「サウジアラビア館で次回の予告を見たけれど、日本と規模が全く違い、会場内は電車で回らないといけないくらいの大きさだった」ということで、今からお金を溜めて行きたい!とのことでした。なぜなら、そこには未来の都市や未来の生活があり、夢を与えてくれそうだからぜひ見たい!と。
1970年、今から55年前の大阪万博はテレビで見ているだけで夢があり、未来があったように思います。
その時の「夢」が携帯電話であり、歩く歩道であり、月旅行となって現実になっているのです。
そういう人々がしあわせになるための社会生活に、人の心に寄り添った技術開発があったような気がします。携帯電話など、1人1台どころか、ビジネス用とプライベート用と複数持っている人もいます。
そしていつでもすぐに繋がることが出来るようになり、人々の生活を変えました。
しかし、すぐにつながるが故に、ドタキャンや無視と言った、相手を思いやる気持ちが薄れていったように思います。会社を辞める時ですら、メール1本で済ませてしまう。本来なら実際に直接出向いて、自分の口からリアルに対面して伝えるところを、何の悪気もなくメールで済ませてしまう。或いは退職代行会社に頼んで終わり。
技術の進歩が、その裏では育まれていた日本の文化さえも合理化してしまったように思います。
その思想の退化が、「失われた」日本ではないかと思います。
ある方の投稿では、「1970年の政治は、成長を語った」「2025年の政治は、調整を語っている」と言われているように、「挑戦より安定を選び」「独創よりも忖度を優先する」日本になり、忖度が故に正直な人を自殺に追い込んでしまう。
やらない理由を並べ、本気を出さなくなってしまった。それどころか「本気がどういうものであるのか」さえ、わからなくなってしまっている。
しかし今、中年の働き盛りの人たちは、この失われた30年に気付き始めています。
AIやロボットが進化してきたけれど、それを利用して効率化は図りつつも、「リアルに触れる事」「人と会うこと」「時間を共有すること」などの、直接的な手触り感が必要だと感じ始めています。
よって、「魂のリアル」に惹かれ、思考で押さえつけていた感情を取戻そうとしているのだと思います。
じゃ、また明日!