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今朝、新しいbligに出会いました。それを書かれたのは11年前ですが、本質を突いた内容でした。
人を見る時、心の持ち方で大きく2つに分かれるというものです。
それは「人を人として見る」のか「人を物として見る」のか。
「人を人として見る」時は、その人の一面だけではなく全てを見るので、相手に対して思いやりの心で見ることが出来ます。
「人を物として見る」時は、ある一面だけを捉えて、自分の勝手な判断基準で見てしまうのです。
著者は椅子を例に出して説明されていました。
例えば天井の蛍光灯が切れてしまった時、椅子を持ってきて、椅子に乗って取り替えようとします。
この時、椅子は踏み台という物です。蛍光灯を取り替えるための便利な物です。
何かを成し遂げるための便利な道具です。
人を物として見る1つ目は「便利な道具」として見るということです。
取り外した古い蛍光灯を捨てに行こうとした時、椅子に躓いてしまいました。
この時、椅子は自分にとっては、躓く原因になる邪魔な障害物になります。
椅子に限らず、人も自分にとって邪魔な人として扱うことはないでしょうか。
人を物として見る2つ目は「邪魔な物」として見るということです。
そして、その椅子を目の前から退かせました。躓くことなく古い蛍光灯を持って部屋を出ました。
この時、椅子は自分にとっては無関心で、あっても無くてもどうでもいい物です。
椅子と同じように、人を無関心な物として見ていることはないでしょうか。
人を物として見る3つ目は「無関心な物」として見るということです。
椅子は本来、腰を掛けるための便利な道具のはずです。
自分にとって必要なもののはずです。
しかし、それをその時の自分の都合により、
「利用するための便利な道具」であり
「自分の道をふさぐ邪魔な物」であり
「その時の自分にとっては、価値のない無関心な物」になってしまうのです。
椅子に限らず、他の物であっても、ましてや人間に対しても同じように見てはいないでしょうか。
自分の役に立つ瞬間だけは便利な道具として利用し、その後は邪魔な物・無関心な物として扱う。
知らず知らずのうちに、人を物として扱ってしまっているのです。
自分は周囲の人をどう見ているのか。
知らず知らずのうちに、人を物として見ていないだろうか。
改めて考えさせられるblogでした。
じゃ、また明日!