最近テレビでも「目に見えるものより、見えないものの方が大切」と言われるようになりました。特にニュース番組など、現実として目に見えることだけで判断せずに、目に見えない部分も考慮して判断した方が良いとか。
私たちは生れた時から目に見えているそこに「ある」ものを信じて生きてきました。見えないものは見えていないから「ない」と。
最近、スマホのインスタなどで目の検査のような感じで、「この絵に隠れているものは何でしょう」とか、「あなたは何がみえますか?」といったような類のものがよく流れてきます。時には「見えなければ認知が進んでいるかも」とか言って脅かすものもありますが、小学校の目の検査でもあったような気がします。
しかし、じっと見ていると、最初は単なる縦線しか見えなかったものが、次第にの奥にパンダがいたり、ドラえもんがいたりします。これって「いない」と思っていたのに「いた」という感じです。
私たちは物事を固定して物事を考えがちです。パソコンはパソコンであり変わらないと。しかし、そのパソコンも毎日使っていると劣化し初め、メモリも満杯になって行きます。けれどもそれは外からは見えません。そしてある時「パソコンがバズった」とか「フリーズした」とかになってしまうのです。椅子もそうです。毎日毎日座っていると、いつしかガタつくようになってしまいます。目の前にあるものが同じのように見えても、それは時間とともに変化しており固定ではないのです。
人間も同じで、泣いたり笑ったり、愛したり別れたりの出来事の連鎖の中で私たちは生きています。
出来事は「点」ではなく、「流れ」の連鎖の中で繋がって行っているのだと思います。
人とのご縁も同じだと思います。その連鎖が時として自分の人生を形作り、社会の1つのピースにもなっている可能性があると思います。
物事を固定で考えると、執着になります。よくあるのが退職者の肩書が取れた時、肩書に執着していた人は「退職者」になり、肩書に執着していなかった人は「人格者」になる可能性があります。肩書などは「一時的な出来事の形」にすぎないのかもしれません。
それよりも、自分の1つ1つの行動が、その出来事とどう関わるかによって、自分の目の前の出来事が変わってくるのだと思います。
「自分はこういう人間だ」という固定観念の強い人は、例えば入院した時など、その肩書にしがみついた態度から抜け切れず、他の患者さんの迷惑になったりします。悲しいかな、聖職と言われる職におられた方ほど、そのギャップが大きかったのを何度か目にしたことがあります。
人は無数のできごとを通して常に変わり続けている存在だと思います。
よって、今日という出来事を自分はどの様に生きるのか、何を選ぶのかが自分自身を創っていっているのだと思います。
じゃ、また明日!