現実とは目に見えているものが現実で、それはみな同じに見えているものだと思っていました。
しかし最近、現実とは「外の出来事」ではなく、「内なる意識の反映」なのだという文章を多く目にするようになってから、そうかもしれないなと思うようになってきました。
同じものを見ていても、人によって見方がちがうし、見え方も違ってくるからです。
例えば、身内に妊婦さんがいると、街を歩いていても乗り物に乗ってもやたら、お腹の大きい人が目につきます。
以前はほとんど気にならなかったのに、家族や姉妹、友達に妊婦さんがいると、こんなにも妊婦さんがいたのかと改めて思う時があります。
そして子供が生まれると、やはり街中で子どもに目が向いてしまいます。
結局はその時の自分の意識がどこにあるかによって、見える世界が違ってくるのです。ただ似ている世界はあるものの、人の数だけそれぞれの世界があるというのも事実だと思います。
人にはその人の意識のフィルターがあり、そのフィルターが自分の見えるものに意味づけし、解釈して感じていくようです。
同じ「犬」を見ても、犬がきらいな人にとっては「怖い」と感じるし、好きな人にとっては「かわいい」と感じるし、まったく違ったように感じてしまうのです。
自分の意識というフィルターが「これはこういうものだ」と信じていれば、それは「そういうものとしてしか」目には映らないのです。決め付けというのもそうだと思います。自分では決め付けているつもりは無いけれど、自分の意識が解釈するもの意外は見えないのだから、仕方のないことかもしれません。
しかし、ある時「これはこういうものだ」と思っていたけれど、そうでもないかもしれないと思って意識を変えてみた瞬間、見えていた世界がガラリと変わることもあります。
今日目にした文章で、交通事故で妻とお腹の赤ちゃんを失った男性は、警察から連絡を受けて居眠り運転のトラックにはねられたと聞いた瞬間、犯人を許せないと思いました。
まだ若いその運転手は婚約者と共に泣いて詫び続けていて、父親も頭を地面にこすりつけながら、自分は死んでも良いけれど、息子が生きることだけは許してくださいと、詫び続けたとか。後で警察の人から運転手は病気の母親の入院費を稼ぐために無理して働き続けて居眠り運転をしてしまったと聞いた時、その人は運転手を許せないけど憎めなかったと。
3歳になる息子と二人っきりになったその男性は、憎くて許せなかった運転手が震えながら謝り続けているのをみて、憎めなくなったのは、その男性の内なる意識が変わった瞬間だと思います。
人は、自分の意識が「見たいよう」に見て、「信じたいよう」に創りだしているだけだとか。
この男性が相手を憎むことなく息子と二人で頑張って前を向いて生きていこうという意識も、自分が創り出している世界なのです。
正解は「外の世界」にあるのではなく、「自分の内側」の意識にあるのです。
それが自分のしあわせを創っていくのだと思います。
じゃ、また明日!