私は物事をきっちり捉えることが出来ないので、本質を見抜けるようになりたいと、以前から思っていました。
しかし、本質と言っても「主体的本質」と「客観的本質」があるのを知りました。
そして、私が見抜けるようになりたいと思っていたのは、客観的本質の方でした。
私が間違っていたのは何事に対しても「こうあるべき」と思い、その「こうあるべき」という理想的なイメージが本質だと思っていました。
しかし、「こうあるべき」というのは、人によって違い、「主観的本質」だったのです。
なぜなら、それは個人の価値観であり、理想であり、信念などだったからです。それらは十人十色で個々人によって当然違ってくるからです。このことに気が付いていませんでした。
「客観的本質」とは、誰が見ても同じもの、つまり、不変で普遍な核心的要素を持ったものでした。
それを取り除いたら、そのものが成立しなくなるもの。最後に残るもの。絶対的なものなど、人・文化・時代を超えて残るもの、だったのです。
時代・文化・人の考え・状況が変わったとしても、変化しないもの。或いは、時間を超えて存在する普遍性のもの。
結局、音楽にしろ、舞台にしろ、本にしろ、古典と言われているものは、今でも人々に愛され続けています。
そして、時代を超え国を超えて多くの人を未了しています。やはり本物は生き続けているのです。
例えば言葉のわからない国の人々が同じ音楽や舞台を観て感動するのも、客観的本質を含んだものだからです。
この2つの「主観的本質」と「客観的本質」を理解せずに、ただ単に本質を知りたいと思っていても、個人的な価値観で理想の「こうあるべき」をぐるぐる回っていたことと思います。
今から思えば若い時は「こうあるべき」で突っ走っていたように思いますが、それは自分の価値観、自分の信念にすぎなかったのだと、今思えば恥ずかしく思います。
多分、周りからすれば、うっとうしい奴だったと思います。
気が付くのが遅すぎますが、今からでも「客観的本質」を見抜けるよう、努力したいと思います。
じゃ、また明日