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8月にも同じようなタイトルで書いた覚えがあります。「みんな違って、みんないい」
今回は、ディスレクシアという側面からです。
ディスレクシアとは学習障害の一種で、知的能力及び一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、
文字の読み書き学習に著しい困難を抱える障害の事です。
失読症、難読症、識字障害、読字障害、読み書き障害、とも訳されます(Wikipedia)
普通、障害がある人が問題だと思われがちですが、困っている人が問題なのではなく、周りの人が関わり方を工夫することで、困っている状態がなくなる可能性がある。と言うのも1つの事実だと思います。
学校では「みんな違って、みんないい」と教えるから、子供は言葉としては覚えています。
「じゃぁ、どうするの?」という段階になると「わからない」
本当の学習はその先を考え続けていく事だと思います。
「学校では、合理的な配慮がなかなか認められずに、苦しんでいる人が結構いる」と言うのは、現実問題だと思います。
読み書きに困難があるディスレクシア障害の中学生は、その学習障害を補うために学校でパソコンを使おうとしても「特別扱い」になるとの理由で、先生が認めない場合があるとか。
私はいつも思うのですが、学校や教師の意識がなぜいつも遅れているのか、理解に苦しみます。
教育委員会はなぜ学校に指導出来ないのか。もっと言えば、文部科学省は・・・となって、
結局は仕事ではなく作業しか出来ない所に成り下がってしまっているように感じます。
中学生は話しています「視力が悪い人が眼鏡をかけてちゃんと黒板が見られるようになるのと同じ。何も可笑しくも、悪くも無いのに」
私は学習障害を補うためにパソコンを使うことと、黒板が見えないから眼鏡をかける事の本質は同じだと思うのですが、それが「特別扱い」となるのなら、眼鏡も特別扱いになって、その先生に認めて貰えないのでしょうか?
学ぶべきは、本質が見えない教師がその中学生に「ものの見方、考え方」を学ぶ必要があるのではないかと思います。
教師自身も生き辛い中で作業をしなければならない環境なのかも知れません。
しかし、教育という仕事に携わる限り、人の心が分かる人間であって欲しいと思います。
じゃ、また!