私たちは人に「その根拠は?」と聞かれたら、「そんな気がするから」とか「そう思うから」とか答えます。
それって本当に正しいのかどうか・・・。
私たちの判断や価値観は「無意識の構造」に支配されているようです。私自身もそうですが、知らず知らずのうちに「こうあるべき」というフィルターで物事を見てしまっています。そしてそれが、思い込みや決め付け、固定概念になってしまいます。
人間の行動は、背後にある「構造」によって成り立っている。という考え方があります。
男/女 都会/田舎 善/悪 など二項対立の枠組みで無意識に物事を理解しています。
よって、知らず知らずのうちに「こうだから、こうだろう」というい思い込みに支配されてしまうのです。
人は見かけにはよりません。最近はSNSの○○映えとかで、ムリをしてホテルのロビーで写真を撮ったり、高層マンションに移り住んだりする人もいるようです。人からは素敵!と言われるかも知れませんが、それ以外の生活はギリギリの毎日です。
反対にマンションや洋服にお金を掛けない代わりに、ジムに通ったり、映画や美術館に行って感性を磨いている人もいます。
幸福感は人それぞれで、その人の価値観によるものだと思いますが、見かけだけで判断するのも正しいとは言えないと思います。
この思い込みの構造からみると、人を「行動や価値観で見る」ことや「可能性に着目する」ことに意識が変化するようです。
これに関連して、何を基準に「信じる/信じない」を決めているのかということになります。
毎日、ニュースやSNSで嘘か本当かわからないような情報を無意識に選択しています。自分なりに判断したつもりでも、「これでいいのだろうか」と、違和感を覚える時があります。「それって、どうなんだろう」と。
私たちは無意識に「正しい答え」を探そうとしています。しかし、それよりも大切なのは答ではなく、「判断の前提」に目を向けることだと言われます。見えている意見や行動はあくまで結果にすぎず、その奥には価値観・育ってきた環境・無意識のルールなど目に見えない枠組みがあります。
「何が正しいか」ではなく「なぜそれが正しいと感じられているのか」という、問いの位置そのものを一段手前にずらす視点が、自分がどこから考えているのかを知ることになるのかもしれません。
よって、「〇〇だから、XXだろう」という固定された価値観で物事を判断するのは、間違った入り口から入るようなもので、当然出口も違ってきます。よって、出口を開けた途端、「こんなはずじゃなかったのに」となって、人生の指針を見失うことになりかねません。
「○○だから、XXだろう」という考えになった時は、「それってどうなんだろう」「なぜそれが正しいと感じられているのか」と、立ち止まる必要があるかもしれません。
じゃ、また明日!」