私たちは自分が正しいと思っていると、ついつい熱がこもって人に喋ったりしてしまいます。そういう時って、知らず知らずのうちに「正しさの押し付け」になってしまっている時があります。
正しさの押し付けになった時は、自分の中の「こうあるべき」を相手を当てはめようとしてしまいます。しかし、その時のかすかな圧力は相手にも伝わってしまい、静かに相手は離れていくのです。
自分は、「もっとちゃんと伝えたい」「何か役に立ちたい」など、色々思うことがあるのですが、思い過ぎて相手を急かしてしまったり、語尾が強くなったり、説明のつもりが指示になってしまっていたりします。必死さが伝わると、相手の安心を奪ってしまうようです。
どれだけ正しくても、どれだけ優しくても、必死さが伝わると相手は心をそっと閉じていくようです。
「ほうよう」には沢山の漢字と意味がありますが「抱擁」と「包容」にしても、
抱擁は、「身体」で相手を包み、安心を伝える行為。
包容は、「心」で相手を包んで、安心をつくる構え。
よって、包容があるから抱擁が生まれ、抱擁があるから包容の本質が伝わる、とか。
身体で触れる前に、心で安心の土台をつくる「優しさの哲学」のようです。
それは、相手のペースに寄り添う包容の姿勢が必要だとか。時間をかけてゆっくりとのぞまないと実を結ばないと思います。
その為には、先ず自分を知ってもらい、安心だとわかって信頼してもらい、その結果として行動に移っていく。
想いが先走って発信を焦ると、それは「押す発信」になってしまい、押せば押すほど嫌われてしまいます。反対に包容の発信は「待つ発信」となって、信頼関係が育っていくのです。
サン=テグジュペリの言葉で「愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである」と、あるように、伴走としての包容が、安心した優しさの関係になると思います。
焦らない、押し付けない、奪わない。ただその人の「あるがまま」を受け止めることが、より良い人間関係を築いていけるのではないかと思います。
じゃ、また明日!