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私たちは「破壊」と聞くと、元のものを壊されて再起不能のような感じに受け取ります。
物であれば粉々に壊されたり、人間関係でればもう顔も見ることが無いような状態とか。

しかし、この「破壊」も人によっては受け取り方が違うようです。
過去を否定するために壊したのではなく、もう一度、正しく立ち上るために壊したのだとか。
そうなると、「破壊」はそれで終わりではなく、そこから立ち上がったり、やり直したりするためのものとなり、肯定的に受け取られるようになりました。

それは、「古い自分を壊す」という人間の内面的な再生の過程だとすると、過去を否定するための破壊ではなく、もう一度正しく立ち上るための破壊となり、破壊のイメージがガラリと変わりました。
これは「理解のやり直し」としての破壊です。

では、やり直しはどこからやり直すのかと言えば、自分の内面の理解のやり直しです。
うまく行っていないということは、どこかに理解の仕方が間違っていたかも知れません。

例えば現象面だけを見て判断してしまっていたかも知れません。
先日TVで東横に自分の娘が行っていて、ビルから転落して命を落としてしまったという父親のドキュメントがありました。

両親は自分の娘がまさか東横というそんなところにいっているとは思ってもいなく、自分達の知らない娘の一面があったのだとショックを受けていました。暫くの間は自分達と東横は結びつかなかったので行きたくもなかったのですが、やはり娘の死因や、娘が東横でどんな風に過ごしていたのか知りたくて通うようになりました。

最初はただ通るだけでしたが、段々と娘の写真をそのあたりにいる子に見せて聞きまわるようになりました。すると「見たことがある」とか「知っている」とかいう子どもたちと話すようになり、その子たちのことも理解していくようになりました。

ある子どもが自分の娘がオーバードーズで道端にへたり込んでいた子に「大丈夫?」と言って背中をさすって介抱していたと聞き、娘にそんな優しい所があったのだと、嬉しくなったようでした。

そこから父親は東横のような所をなくしたい。子どもたちの行き場を作りたいと思い、それからも東横に通って子どもたちの話を聞いたり、受け入れ場所を作る方向に動きだしました。

この例などは、娘の死を否定的なものとして終わらせず、そこから問い直すところから再構築を始めたのだと思います。
一度は両親とも壊れてしまったけれど、自分の娘だけではなく、東横の子どもたちを理解し、子どもたちの居場所に向かって立ち上がるという、その過程で「人を理解できる人」として変わっていったのだと思います。

破壊は過去を否定するためのものではなく、もう一度、正しく立ち上がるために壊したということになると思います。

じゃ、また明日!                   


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jibunoikiru@gmail.com

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