日本人は自己肯定感が低いと言われています。戦後80年も経つのに世界の中に於いても、いまだにアメリカの顔色を窺っているような気がします。
戦後生まれのベビーブーム時代は、何事も競争の時代だったと思います。椅子取りゲームの椅子が少ないので、どうしても力づくでも椅子を取らなければならない時代でした。
それが結局は良い学校に入り、良い大学に入り、良い会社に就職をし、良い人と結婚する。そして、子どもも良い学校に入らせる。それがその時代の価値観だったと思います。
しかし、その状態はいつも他人との比較です。他人よりいい大学に入り、他人よりいい会社に入り、他人よりいい結婚をする。他人と比較して自分のしあわせを感じているようでした。よって優越感が自分を支えていた部分もあります。反対に、その競争に負けた時、親や親しい人から否定される言葉をいわれると、自分はダメだ!と思い込み、自己肯定感が低くなるのだと思います。
時代がその価値観であったので、自分も周りも違和感なくそれが当たり前だったようです。
しかし、SNSが発達してくると情報は誰でもが手に入るようになってきました。そこでは昔ほど差別化はなくなりました。よって、情報という意味では昔のように優越感を感じることが出来なくなりました。
そうなると、何を根拠に自己肯定をすればよいのか。
比較の時代は、自分の目は外に向いていました。自分の外側のことと、自分との比較において自分というものを捉えていました。よって、その外側が無くなったときに自己肯定感は揺らいできて不安になるのです。
自己肯定感とは「自分が自分のままであって大丈夫」という「ありのままの自分を肯定する感覚」です。
よって、他人の目や評価は関係ないはずです。
自分が自分の内側と向き合い、ありのままの自分を認めればよいことなのです。出来る自分も認め、出来ない自分も認める。それらすべて含んで自分なのだと。
出来ない部分があれば、それをどうやってできるようにしていくかは、自分と相談すれば良いことで、他人に聞いて他人の言うとおりにすれば、それは他人の人生を自分が歩むことになります。
どんな自分でも、それが自分自身なのだと認めれば、自己肯定感は高くなっていくと思います。
ダメな自分を認められないから、苦しくなってくるのです。
私もかなり外に目が向いていたと思います。しかし、ヴェーダ瞑想を始めてからは自分の内側を見つめだし、外の世界は気にならなくなりました。そして、外の世界と比較してみても、何の意味もなかったと思うようになりました。
「比較でしか自己肯定できない」その比較とは、外側の世界との比較ではなく、自分の内側の世界との比較だったのです。
ありのままの自分を認めれば、自己肯定感は高まると思います。
じゃ、また明日!