今、学校でも社会でも「問を立てる人」と「答えを求める人」の2つのタイプがあるようです。
かく云う私も最近までは答えを求める方でした。
正解は自分の外にあり、外の正しい答えに自分を合わそうとしていました。
しかし、答えは自分の中にしかないのです。外の答えは外の人の答えであって自分の答えではなかったのです。
それに気づいてからは、自分の中の答えを探すようになりました。
結局答えは1つではなく、十人十色だったのです。
正解だと言われていることを疑ってみることが、新たな発見にもつながるのだと知りました。
問いを立てる人は答えを決め付けてはいません。答えらしきものがあったとしても、それに飛びつくのではなく、本当にそれが答えだろうかと、自分で考えます。なぜなら、答えらしきものに飛びつけば「これが答えだ」と思った瞬間、それで解決したと思い、そこから先へは進まないからです。
コロナワクチンが出た時も「コロナにはこのワクチンだ!」と、答えを決め付けてそれを広めていきました。その時、「本当にそのワクチンが効果あるのだろうか」と疑問を抱いた人もいました。しかし、問を立てた人は大学から追放されたり、医療業界から無視されたりしていました。問いを立てる人の方が非難されたのです。
しかし、それは正解ではありませんでした。
ワクチンを打つよう勧めていた人が、今では「ワクチンは感染予防効果はあまりない」と言っているのです。
問いを立てる人は、「本当にコロナワクチンは必要なのだろうか。検証結果もまだ出ていないのに!」と思ったし、
答えを求める人は、「政治家やTVでもワクチンは必要だと言っていたので、毎回打っています」と。
その結果、何回もワクチンを打っていた人がコロナに2回も3回も罹り、1回も打っていない人は私の周りでは誰も罹っていません。後遺症で苦しんでいる方や、亡くなってしまった方もおられます。
人はことあるごとに判断し、選択していっています。
その結果は周りのせいでもなく、選んだ自分に跳ね返ってきます。
答えを見つけるよりも、問を持つ方が自分に責任を取れるのではないかと思います。
そして、問は自分をまだ見ぬ世界へと導いてくれるような気がします。
じゃ、また明日!