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人間は忙しくしている時、目の前のことに振り回されて毎日生きているということを何も感じません。
しかし何かのきっかけで、ふと魔がさす時があります。
今回の新型コロナウイルスの影響のように、会社をクビになったり、事業が倒産したり、お店が閉店せざるを得なくなったり。
或いは、子育てが一段落ついたり、定年退職したり。
そんな時、改めて自分の存在意義や存在価値が目の前に現れてきます。
自分は存在する価値があるのだろうか。とか、
次なる自分の役割はあるのだろうか。とか。
今までは目に見える形で、自分の存在価値を確認すことができました。
会社員という肩書であったり、事業主という肩書であったり、店主という肩書であったり。
或いは母親という役割であったり。
しかし、それらは単なる肩書にしかすぎません。
肩書=存在価値 のように受け取られますが、そうではないと思います。
小さい時から「大きくなったら、ちゃんとした会社に入って安定した生活を送るのだ」という、
自分の周りの価値観が刷り込まれていただけです。
その価値観が本当に正しいのか自分で判断する以前に、自分の価値観へとすり替わってしまっているのです。
よって、肩書のない自分は一体何者なのだ?と、不安になり、空虚感で満たされてしまうのです。
その空虚感は、無理に埋める必要のないものです。
その空虚感は、自分自身の内側から自分の存在意義を見つけだすエネルギーの源だと思います。
会社というものを意識せずとも、お店というものを意識せずとも、母親、父親という役割を意識することなく、
人間としての1人の自分と出会うチャンスだと思います。
1人の人間として立ち戻った時、人とニコッと挨拶をするだけで自分の存在意義はあるのです。
誰かに話しかけるだけで、存在意義はあるのです。
家族、知り合い、仲間、これから出会う人の為に、笑顔で挨拶するだけで、存在意義はあると思います。
子供は生まれた時から、親や周りの人に笑顔を向けてくれます。
それだけで、周りを癒し、幸せな気持ちを与えてくれます。
私自身も忘れ去っていますが、全ての人がそうしてきたと思います。
それが存在意義だと思います。
あれだけ赤ちゃんの時に癒してもらった子供に対して、今はあの愛おしさのかけらは残っていますか?
子育てが終わって、ふと魔がさす時って、それを問われているのだと思います。
子育てに限らず、社会人であっても「ふと、魔がさすとき」というのは、
自分が次のステージに行くための通過点だと思います。
これからは何者にもとらわれずに人とかかわれる自分が、誰に何を与えることが出来るのか。
そこには、選択の自由が待っていると思います。
人は人とのかかわりの中でしか生きていくことはできないと思います。
そして、自分の存在意義は人に与えることによって、見出すことが出来るのだと思います。
自分から挨拶をすることだけでも、存在価値は十分あると思います。
じゃ、また明日!


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jibunoikiru@gmail.com

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