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「知識は道具である」という捉え方は、今や当たり前のようです。
松下幸之助氏は、語られています。
「知識と知恵。いかにも同じもののように考えられるかもしれない。
けれどもよく考えてみると、この2つは別のものではないかという気がする。
つまり、知識というのはある物事について知っていると言うことであるが、
知恵というのは何が正しいかを知るというか、いわゆる是非を判断するものではないかと思う。
言い換えれば、かりに知識を道具にたとえるならば、知恵はそれを使う人そのものだと言えよう。
お互い、知識を高めると同時に、それを活用する知恵をより一層磨き、高めてゆきたい。
そうして初めて、真に快適な共同生活を営む道もひらけてくるのではないかと思うのである。」
『木のいのち 木のこころ』の著者、西岡常一氏は、
「道具は大工の手の延長です」と語られています。
「大工の仕事は頭でするんやなくて、最後は自分の腕で仕上げなければなりません。」
「きれいな仕事をするためには、いい道具、切れる道具、それを使う腕が必要です。」
「自分の鉋(カンナ)でしたら精魂込めて砥ぎます」
「道具が衰えていくということは、それを使う大工の魂も衰えていくということです」
知識は道具であり、知恵は人であり、そこには魂が込められる、と。
買ってきた刃を取り替えたら、また切れる電気鋸に魂は込められない、と。
知識に自分の魂を込めないと、それを使う自分の魂も衰えるというのは、大工ならではの感覚だと思います。
ソフトバンクグループの孫正義会長は、ツイッターで呟いています。
「知恵や知識は道具に過ぎない。明確な志し無き時は道具の持ち腐れである」
学校教育では知識を習います。
そして、テストをして知識の量や質で競います。
しかし、知識の蓄え方は習っても、その知識の活用の仕方は教えてはくれません。
そして、社会に出たらその知識をどう活用すればいいのかわからないので、戸惑うばかりです。
教育というのは、自分の中の「魂」や「志」を見つけるということを、教えるべきではないかと思います。
誰もが持っている自分の「魂」や「志」を。
そうであるのに、知識を詰め込むから自分の中の「魂」や「志」が埋もれてしまって、
本来各自が持って生まれてきたはずの「魂」や「志」を忘れてしまっているのです。
昨今「知識は道具に過ぎない」と気付いている方々は、惜しげもなくその知識をblogやメルマガ、you tubeで公開してくれています。
しかも「知識はただでくれてやる!」と気前よく、自分が勉強したことをどんどんばら撒いてくれています。
裏を返せば、そんな知識を拾い集めるだけでは、宝の持ち腐れになるだけだと言われているような気がします。
折角拾った宝なら、そこに自分の「魂」や「志」を吹き込める人間になりたいものです。
じゃ、また明日!