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何かをやる時には、必ずその目的があります。
ピアノが弾けるようになりたいから、ピアノを習う。
野球がやりたいから、少年野球チームに入る。
小さい頃は、親に勧められて始めたり、軽い気持ちでやりたいと思ったから始めたりといった場合が多いと思います。
しかし、一流選手はその小さい頃から「ピアニストになりたい」とか「野球選手になりたい」とか「オリンピックに出たい」とか、目標を持ってやっています。
オリンピックに出ているアスリートの小学校の作文には、必ずと言ってよいほど「大きくなったら、オリンピック選手になりたいです」と、書いてあります。
オリンピックに出なくても、ある程度のレベルまで達しようと思えば、やり始めた時から目標をしっかり持っておかないと、目標には近づけないと思います。
目的が変われば、見るべき視点も変わってきます。
ただ単にピアノの曲が弾けたらいいと思って練習するのと、ピアニストになろうと思って練習するのとの違い。
草野球を楽しもうと思って練習するのと、野球選手になろうと思って練習するのとの違い。
同じ練習と言っても、その練習の質が変わってくると思います。
教える側も、この子はピアノの曲が弾けるように教えようとするのか、この子はピアニストを目指しているので厳しく教えようとか。
同じピアノを弾くと言っても、ピアノを弾く目的の前提が違えば、教え方も受け方も意識が違ってきます。
そこで起こってくる食い違いは、前提の共有がなされていないからだと思います。
先生がいくらピアニストに育てようと思っていても、本人がピアノがうまく弾けたらよいと思っていたら、そこには食い違いが生じ、自分ではちゃんと楽譜通り弾けているのに注意ばかりされる、と思ってしまいます。
先生としては、世界に通じるレベルに育て上げようとしているので、楽譜以上の部分も求めます。
よって目的となる前提の共有が非常に大事になって来ます。
この前提となる共有を抜かしてしまうと、相手の考え、相手の立場が分からないまま、自己主張をするばかりに終わってしまいます。
そして、相手のせいにばかりして、自分を顧みることができないのです。
本来なら目的の前提の部分から共有できていれば、お互い支え合い、目的に向かって乗り越えて行けるものを、
相手の言っていることがわからず、コミュニケーションが成立しないまま、誤解と不信感で終わってしまいます。
結局は自分の考えがあやふやで、目的をはっきりと考えられていないことに原因があるのですが、そこに気が付いていないのです。
教える側も才能のない人を一生懸命一流にしようと頑張っても、思い通りに行かなくてストレスが溜まるばかりです。
習い事1つとってみても、いかに自分の中で目的をはっきりしておかないと、教える側の先生に迷惑をかけてしまうかということになります。
私もいくつか習い事をしましたが、親に勧められたり、たまたま話を聞きに行って即入門となったりで、
自分で意識して目的を持ってやり始めたことはありませんでした。
最初から目的を持って取り組んでいれば、視点も変わり、学ぶ姿勢も変わっていたと思います。
習い事に限らず、自分で何かやろうとする時も、自分の目的をはっきりさせないと、
目的達成までの計画もブレてしまい、結果は出ないものだと思います。
自分の行動の目的を自分の中ではっきりさすという事は、非常に大切なことだと思います。
じゃ、また明日!