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コロナのおかげで、色々考えさせられることがあります。
「幸せって何だろう」と。
営業自粛でお店を開けられない所、開けられる所があります。
営業停止の所は収入ゼロで辛い日々を送ります。
反対に、お店を開けてもお客様が来られないので、経費や人件費が掛かって辛い部分もあると思います。
そんな中、テレビのインタビューを受けた店主は「わざわざ食べに来て頂いて、1人でも来られたら頑張ろうと思います」と答えていました。
この店主は、たった一人のお客様が来られたことに、幸せを感じておられました。
幸せを感じられるのは、人によって違います。
病に臥している人は、目が覚めた時「今日も生きている!」ことに幸せを感じます。
コロナ禍の今は、サラリーマンなら「お給料が振り込まれている」ことに幸せを感じます。
高齢者は「年金が振り込まれている」ことに幸せと安心を感じます。
ある人は、営業で車を走らせていると「家族連れで歩いている姿をみる」ことに幸せを感じたようです。
今迄、家族連れで歩いている姿はほとんど見ることがなかったそうです。
私は、阪神淡路大震災後は、屋根のついている家で足を伸ばせて寝れることに幸せを感じています。
寝る家がなかったり、食べるものがなかったりは、辛いことです。
お金を沢山持っていたり、車を何台も持っていることが幸せだとは限りません。
いくらブランド品を身にまとっても、上辺の会話しかできないのなら、幸せとはいえません。
喧嘩ばかりしていても、本音で話しあえれば、幸せを感じることもあります。
結局、幸せって自分が幸せの方に近付いたり探しに行くのではなく、自分のすぐそばにある幸せに気付くことではないでしょうか?
お客様が1人りでも「今日は1人しか来てくれなかった」と感じるのか「1人でも来てくれた」と思えるのか。
「1人でも来てくれた」と、来られたお客様に感謝が出来る人は「明日は2人に来てもらおう」と、明日へ繋げることが出来ます。
幸せは、自分が気付くことが出来るか、気付くことが出来ないかの差だと思います。
過去に一度「自分は幸せではないんだ」と、思い込んでしまったら、身の回りにある幸せには、なかなか気付くことが出来ません。
幸せは目に見えるものだけとは限りません。
私は、亡くなった母が見守っていてくれていると思うだけで自分は一人ではないと、幸せを感じる時があります。
コロナで休校の今は特にそうですが、メールなどのやり取りだけでも、先生が生徒を見守ってくれていると感じる場合もあります。
遠く離れても、いつも気にかけてくださっていると感じただけでも、幸せを感じることはできます。
そうなれば、自分自身が身近にある幸せに気が付けるかどうかにかかわってきます。
錆びかけた自分の「幸せアンテナ」を張り巡らす必要があるようです。
自分が幸せだと気付ける心を保ち続けたいです。
じゃ、また明日!