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誰かに喜んで貰えるということは、自分の価値を確認し、自信を深めることができます。
そして、自分が人と会った時、喜んで貰えれば、自分は必要とされている存在だと確認することができます。
「自分を喜んでくれる人がいる」と確認することができれば、自分が生きる価値も見出すことができます。
ある方のblogに書かれていたことと、まったく同じことを私も経験したことがあります。
そのblogではイギリスでの出来事でしたが、私は今の家に引っ越して来て間もなくのことでした。
その時はまだ仕事をしていたので、毎朝同じ時刻に家を出て、同じ道を通って駅まで歩いていました。
家のすぐ近くで、毎朝お花に水やりをしているお爺さんがおられたので、挨拶をして通るようになりました。
こちらが挨拶をすると、お爺さんもにこやかに、嬉しそうに挨拶を返してくださいます。
それが毎朝の習慣となりました。
ある時、ほんのわずか家を出るタイミングが遅くなりました。
するとお爺さんは空になったジョウロを片手に、じーっと佇んでおられました。
そして私が挨拶をすると、嬉しそうに挨拶を返してくださり、すぐに家の中に入って行かれました。
その時、お爺さんはたった一言の挨拶をするために、家の前で待っていて下さったのだと、わかりました。
しばらくすると、お爺さんの水やりの姿は消えました。
後に、亡くなられたことを知りました。
「おはようございます」の言葉の裏には、お互いが挨拶をするために必要な存在であったのだなと、その時感じました。
「よき仲間をもつべきだ」と言われます。
その時の「よき仲間」とは、同じ価値観を持ち、同じ方向に向かっている人のことだと思います。
真剣に喜怒哀楽をぶつけあえる存在。
それがよき仲間であり、自分が必要とされる存在だと思います。
喜怒哀楽をぶつけあうということは、かなりのエネルギーと信頼が必要となります。
エネルギーがぶつかりあうことにより、大きな摩擦が生まれます。
しかし、その摩擦のエネルギーも、自分が生きるエネルギーとして戻ってくるのです。
よって、人生を充実させるには、この摩擦のエネルギーも必要不可欠だと思います。
自分は必要とされる人間か。
喜怒哀楽をぶつけあえる存在であるか。
時には考えてみるのもよいかなと思った次第です。
じゃ、また明日!