見るには色々な漢字がありますが、「見る」「視る」「観る」までは知っていましたが、「察る」は使ったことがありませんでした。
目に入ったものを「見て」、注意深く「視る」事は時々していました。もう少し視野を広げて「見聞」や「視聴」をすることもありました。「観る」は演劇や映画などを見てそれこそ見聞を広げることもありました。
しかし、よく考えると、観察には「察る」が入っていたのです。
「察る」は、目に見えないものを読み取る力のこと。洞察力にも「察」が入っています。相手の表情や言葉の裏に隠れた本当の気持ち、意図や感情を感じ取る力だと思います。
同じ場面を観ていても、見ているのと察ているのとでは全く違います。
親でも先生でも、子どもを「見ているか」と「察ているか」では全く判断・行動が違ってきます。
元氣の無い子どもを前にして「今日は静かだな」と見るのか「学校で何かあったのかな?友達に何か言われたのかな」と察るのでは、その後の会話や行動が違ってきます。
社会の色々な問題も、表面的に見て対処しているのか、意志を持って観察しているのかでは、問題解決が全く違ってきます。例えば、いじめなどではその子の命を奪ってしまいます。救えた命を放置してしまいます。冤罪なども、何十年とその人の人生を「無」にしてしまいます。青春も奪ってしまいます。
人生の残り時間が少なくなって来た時に謝られても、人生で一番生きている実感のする若い年代を返して欲しいと思います。
最近は「見る」事すらできなくて、「見て見ぬふり」さえしてしまいます。
「察る」ことが出来たなら、防げたはずのことが沢山あると思います。自分のちょっとした心がけや意識を持てば、世の中がもっともっと住みやすくなるのではないかと思います。
「察る」事は本質を見抜くことでもあります。情報社会になった今、目に入る情報だけで判断すれば大きな間違いをしてしまう事が多々あります。これから益々情報合戦で、何が正しくて何がニセ物かが判断付きにくくなります。そんな中で、本質を見抜く「察る」力があれば、物事を間違うことなく判断できるのではないかと思います。
言葉の奥に潜んでいる正直な感情を汲み取ることが出来れば、より良いコミュニケーションが出来、そこから信頼関係が出来れば、世の中、もう少し優しくなれるのにと思います。
「察る」ことで本質を見抜くことが出来る人間になりたいなと思います。
じゃ、また明日!