ネガティブな感情には「自分にとって大切なものを守る」という役割があるようなので、見逃すことは出来ない。という言葉に触れ、興味を持ちました。
アマゾンの熱帯雨林で暮らす狩猟採集民のピダハン族には、カウンセラーも心理学者もおらず、向精神薬を飲むことも出来ないにも関わらず、自殺、不安障害、うつ病と言ったメンタルの問題はほぼ存在しないようです。
なぜなら、ピダハン族の会話には過去と未来が存在しないからです。彼らは特定の宗教を持たず、精霊や祖先の霊と言った概念もなく、自らの成り立ちを説明する創世神話もありません。ただ目の前の現在だけを楽しめるようです。
われわれ不安の多い先進国の人と違うのは「根拠の薄い事を語りたがらない文化を持つ点」のようです。例えば「狩りで猛獣に襲われたらどうしよう」や「獲物が見つからなかったら飢えるのではないか」という疑念が頭をよぎっても不安をこじらすまでには至りません。
彼らが怪我をした際に行なうのは「私は今傷の痛みを感じている」という事実を受け入れ、出来る限りの治療をすることのみです。我々現代人は「なぜこんな目にあうのだ」とか「この痛みで死ぬのではないか」と怯えてしまいます。そんな意識は彼らには無く、只々真っ直ぐに目の前の事を受け入れているだけのようです。
彼らは苦しみから逃げるのではなく、隠そうとするのでもなく、ただ痛みのレベルを適切に見積もって、出来る限りの対処を行うだけです。彼らにとって「痛みへの降伏」とは、今直面している現実を認め、それに正面から向き合う事のみです。
役に立つ地図を作るには、地域の地形や街路を念入りに調べ、情報を正しく観察することで、そこには「こうした方が良いのに」と、批判を挟みません。与えられた情報をただ観察するだけで、自分の理想の地形を想い描いて文句を言う必要などないのです。
私の生活の考え方はどちらかというと原始的ですが、ピダハン族と似たところもあるような気がします。そして、それは何故かというと、ヴェーダ瞑想の「無」の状態と同じような気がしてきました。彼らの「無」の状態は「最高の状態」という事で、ヴェーダ瞑想も自分を最高の状態に戻しているので、何事も抵抗せず、なすべきことだけをなして、真っ直ぐに素直に生きることだと思いました。
人間は原始人から始まっているので、そこが原点だと思います。私は1年を通して冷暖房は入れませんが、その元は冷暖房が出来たのは歴史的に言えば最近です。原始時代は勿論のこと着物文化から洋服文化に変わった頃もまだ冷暖房などありませんでした。しかし、昔の人はそんな中で工夫をしながら生きてきています。自然界のあらゆることも素直に受け入れて、その中で暮らせる自分になれば、苦しみは軽減されるのではないかと思います。
じゃ、また明日!