人生において何が幸せかというと「豊な時を過ごせているとき」かもしれません。その時、その時にうれしい言葉やうれしい顔ができれば、それで自分の人生がしあわせになったような気がします。人生は最期の時に「自分はしあわせだった」と、感じることが出来ればよいのであって、その途中においてはそうではないときもあるかもしれません。しかし、トータル的に見て、あるいは最期の時にしあわせだと感じることが出来れば、それが一番しあわせだと思います。
人生において岐路に立たされるときはあると思います。そんな時、自分の目的は何なのかと考えた時「自分の目的は”しあわせになること”」であるならば、その都度「どっちが”しあわせになる”のか」を選択していくと思います。
正しさというのも人それぞれだと思います。人から見て「そっちは危険だよ!」という道でも、行ってみれば別世界が待っているかもしれません。「こっちは安全だよ!」という道でも、平坦すぎて退屈してしまうかもしれません。どちらが自分に合うかは人それぞれで、だから、正しさというのは解釈であって、絶対ではないのだと思います。
人は植え付けられた価値観があると思います。小さい時からこういうものだよと教えられれば、それが正しいと思ってしまいます。しかし価値観こそ人それぞれで、その人の正しさではあるけれど、それがすべての人に当てはまるとは限りません。よって自分の正しさの押しつけは、返って迷惑になる場合もあります。
その思い込みから抜け出すには、人の話に耳を傾けられるかどうかだと思います。自分が予期せぬこと、自分とは違う世界の話をされても、それに耳を傾ける余裕が自分にはあるかどうかだと思います。たいがいは、自分の予期せぬ世界の話をされると、自分の中には答えがないので否定します。そして自分の持ち合わせている正しい答えに当てはめようとします。
しかし、人生は人それぞれの生き方なので、自分を生きることで精いっぱいのはずです。人のことを言う暇がないはずです。自分を生きるということは、自分が納得のいく人生を生きることだと思います。よって、その時々の1つ1つの選択も違ってくると思います。
人それぞれが「どちらが自分にとって幸せになれるのか」「どちらが効果的な生き方になるのか」とその生き方を選択していけばよいと思います。たとえ失敗だと思っても、自分が納得のいく選択をしたのであれば、その選択間違いには後悔はしません。しかし、人の選択に従った場合、その失敗は後悔の渦に巻き込まれてしまうと思います。
この世の中の正しさというのはすべて解釈であって、自分の人生は自分の解釈で生きればよいと思います。
じゃ、また明日!