今日も商店街を歩いていて、お客様が入っている所を見たことがない「たこ焼き屋」さんの前を通りました。オープンしてから2か月です。一度だけ若い人が入っていくのを見かけたので、お客様だと思ったら一目散に奥のカーテンの中に入っていきました。今日も店の中はお客様もお店の人もいなく、テーブルだけが並んでいました。
私がイメージするお店は、何とかお客様に自分のお店を選んで頂こうと工夫をすると思うのです。お客様に価格で選んで頂くのか、味で選んで頂くのか、品質の高さで選んで頂くのか、いろいろあると思います。しかし、このお店は選ぶ材料さえないのです。以前にも書きましたが、ここのたこ焼きはお出汁で食べるのか、ソースだけなのか、値段はいくらか、何個あるのか。はたまた売りを出すなら、国産小麦を使っていますとか、明石のとれたてのたこを使っていますとか、普通の2倍の大きなたこ焼きですとか。お客様が選ぶための情報が一切ないので、まったくわからないのです。
私が育った下町ではたこ焼き屋さんやお好み焼き屋さんなど、粉もんのお店が多くありました。よって、薄っぺらい木で作った経木舟皿(ボート型プレート)に6個ほど入れてソースを塗って爪楊枝を添えてくれるものは、友達と塾の帰りに買って帰ったりしました。一方、母や姉と食べに行くのは、卵をたっぷり使った明石焼き台の上にのせてお出汁で食べる少し高級な感じのたこ焼きでした。
このように「たこ焼き」1つとってみても、それぞれに人生の記憶が刻まれているのです。食べ物などは特にその時の記憶が刻まれると思います。当時は現在のようにすべてがプラスティックの容器に入って密閉されていないので、お豆腐も薄い経木で包んでそれを新聞紙でくるんでいました。のちに薄いビニール袋に入れてくれるようになりましたが・・・。そんな時は落とさないように注意しながら持って帰ったものです。それでも何かにぶつかったりすると四角いお豆腐の形が崩れてしまうのです。
そういった事は、いまだに記憶として残っています。体の弱かった母がお中元やお歳暮をデパートに買いに行くときは、当時はかなりの人込みだったので気分が悪くなることもあり、不安解消のために私や姉を連れていきました。そしてごった返したデパートから解放されると、近くのレストランで昼食です。
当時はデパートは高級な店とされていた時代で、近くのレストランも今からすれば普通のレストランですが、ボーイさんが案内してくれるので、非常に高級なお店に思えました。1階がブラジルのコーヒーを飲ませてくれる喫茶店で2階が洋食レストラン。エレベータで上がるので、余計に気分が高揚したものです。フルーツサンドもあって私はフルーツサンドを選んでいました。ある年、私も母や姉と同じカツレツを選んだ時は、自分が大人になったような気がしました。これは大げさに言うと自分の人生で少し大人になった気分を味わった時でした。
お店のお料理そのものや雰囲気などは、時として自分の人生の記憶に残っていきます。それは私がそのお店の価値を受け取ったからだと思います。子どもの頃はそんなことはわかりませんでしたが、今考えると、小学校の低学年のフルーツサンドからカツレツが定着するに至るまでの私の十数年間、私の人生を見守ってくれていたような気がするのです。それは、私がそこのお店の価値を受け取っていたのだと思います。だから年に2回、そこのお店に通い続けたのだと思います。
ある年、当たり前のようにそのお店に行った時「閉鎖」の看板を見た時はかなりのショックでした。いつも人が入っていたので、閉鎖されるとは思ってもいなかったのです。その後のお店はあちこち行ったと思いますが、残念ながらどこも記憶に残っていないのです。そこのお店はメニュー・味・価格・店の雰囲気・サービスなど、それなりの選ばれる理由があったし、こちらも受け取る価値があったと思います。
客商売はお客様が集まってこそ、成り立っていると思います。ある方が書かれていましたが、「集客」という文字は「客を集める」というイメージがありますが、違います。「客が集まる」のです。集まるためには理由が必要、理由には「受け取る価値」が必要。とありました。
この一文を読んで、あのお店が蘇ってきたのです。半世紀も経っているのに、今でも場所や雰囲気やメニューもすぐに浮かんできます。これがお店の選ばれる理由であり、客である私の受け取る価値だと思います。どういう形のものであれ、人生の記憶に残る価値の提供、人生そのものを変えてしまう価値の提供は、選ばれる理由だと思います。
じゃ、また明日!