人は「しあわせになるために生れて来た」と、思っています。それは間違ってはいないと思います。誰も好き好んで不幸せになる為に生れて来たのではないと思います。たとえ結果としてそうなったとしても、それはその都度の判断選択の結果がそうさせたのかも知れません。しかしそれすらも、その後の判断選択によってあわせになっている場合もあります。
よく「生きる目的は何ですか?」と聞かれますが、その答えとして私は「人はしあわせになる為に生れて来た」と、答えていました。それを具体的に考える場合、人それぞれの答えになるのです。
自分が何かをするために生きている人もいれば、自分が自分以外の人のために何かをするために生きている人もいます。例えば、哀しみを背負った人を救いたいと思う人もいれば、大切な人を勝たせたいと思う人もいる。或いは誰かを守りたいと思う人もいれば、誰かに尽したいと思う人もいる。もっと大きく言えば、人類を救いたいと思う人もいる。
反対にお金を貯めるために生きている人もいれば、お金を貯めて困っている人に配る人もいる。ブランドものに囲まれてしあわせを感じる人もいれば、質素な生活を楽しんでいる人もいる。
すべての人が自分が生きているレベルの中で、自分がやりたい目的に向かって生きているのが現実だと思います。それらは人にとやかく言うものでもないし、人からとやかく言われるものでもないと思います。なぜなら、人に構っている間は自分を生きていないからです。自分を生きていたら、人は関係なくなります。自分の生まれて来た意味を考えつつ生きていれば、自分のことだけで精一杯になり、人のことはどうでも良く構ってなんかいられないのです。
結局は自分の「心=魂」が生きたいように生きるだけです。そして、それは自分のやりたい目的・目標に向かって進んでいるのですが、そこまでの道のりの毎日が目的に向かって生きている証になるのだと思います。よって自分が心から生きたいと思うのが魂レベルであって、それがその人のしあわせに繋がるのだと思います。
個々人がどういう視点の目的で生きようとするのか。それが人其々であり、その人のしあわせなのだと思います。
人は小さい時から無意識のうちに判断選択の毎日だと思います。何が好きで何が嫌いか。何が嬉しくて何が哀しいのか。その選択によって、自分の価値観が確立されてくるのだと思います。勿論、小さい時は親や周りの人の影響を受けながら、或いは押し付けられながらの価値観ですが、大人になってからは、嫌でも自分の判断選択をしなければならなくなります。
最近の私は、個々人がカプセルに入り宇宙に浮いているイメージがあります。みんなが其々ぷかぷか浮いているので、上下左右もありません。カプセルの中から他のカプセルを見ているだけ、ただそれだけなのです。人が生きると云うことは、目に見える現実は素直に受け入れ、自分が変えられることは変えて行き、変えられない部分は受け入れて行く。
その一歩一歩が自分というものを成長させていくのだと思います。生きる目的は人それぞれ。自分がしあわせになるための具体的な行動は、十人十色で違って良いのです。そして、違うからこそ参考には観るけれど、自分の生き方に引っ張り込むのは違うと思います。
じゃ、また明日!