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人間関係に於いて他者を気遣うふりをして、結局は「自分を認めさせたい」
という気持ちが心の奥にある人がいます。
それは「自分のため」に言動をしている場合です。
こういう場合を最近になって知り、もしかして自分はこれに当てはまるのでは
ないかと思ったことがあります。
私はよく暑い時や寒い時など、メールなどで「大丈夫ですか?」とか
「ご自愛ください」とか最後に書いたりします。
また、災害などの時はその地域の人に「大丈夫でしたか?」と、メールを送ったり
します。
これって当たり前にしていたけれど、もしかして承認欲求の1つなの?と、
思ってしまいました。
でも、気になる事を我慢して聞かなかったらどうなるのかなと思うけれど、
それも気になる自分を解消するための行動?と思えば何も出来なくなります。
相手への「思いやり」も気を付けないとと思います。
よって、これに関しての答えは今だに出ていません。
かなり以前、今から思えば承認欲求の強い人がいました。
プライドが高く自分は出来る人間なのだと。
同じ同僚でも、あの人が認められているけれど、
本当は自分の方ができるのだ!と。
確かに努力家で頭を使って動く人でした。
育ってきた環境によってそうなったのだなと云う事も理解できます。
そして自分がSNSからでも本からでも何からでも、学んだことは
人に伝えてこそ自分のものになると云う事も知っていました。
よって学んだことは直ぐに人に伝えていました。
しかし、その能力はその人にとって過度な承認欲求になっていたので、
他の人は付いて行くことが出来ず、結局は離れていきました。
本来なら、その得た知識と能力を、広く他者に還元して社会貢献ができたはずです。
しかし、他者に伝える段階で、承認欲求が強すぎて誰もついて行くことは
出来なかったのです。
其々の人の能力というものは、承認欲求のためのものではないと思います。
どんな能力であれ、自己を最大化することで他者との健全な関係を築き、
社会に貢献してくものだと思います。
学んだことを他者や社会に還元することで、その人の学びの意義が生まれ、
自分自身もさらに成長を続けることが出来るものだと思います。
そう思えば前述の人も、折角の学びの能力を持ちつつも、
それを承認欲求という内側だけに使う事で終わってしまいました。
これはある意味、社会にとっても損失だと思います。
今生きている人達は、先人たちの知識や知恵を頂いて、自分の思考と成しています。
だからこそ、自分達もまた未来の人達に伝えて行く必要があるのだと思います。
自分の歴史など、宇宙の歴史から見ればシャープペンシルの芯の一点にもなりません。
そんな小さなミクロのような一点が、マラソンのたすき掛けのように連なって、
歴史というものは創られるのではないかと思います。
学んだことは、Youtuberのように、何万人、何十万人に伝えることが出来なくても、
自分の身の周りの人でも良いから伝えて行って、社会に還元することが大切だと
思いました。
じゃ、また明日!