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自由と云えば、誰からも何事からも束縛されず、世間の常識や、
自分の周りの環境や、人間関係から、自分の思うようにやれることだと
思っていました。
また、抑圧された状態からの解放や束縛からの解放で、
自分達が勝ち取ったものも、「自由」と言っていました。
よって、何をしても良い状態。
自己決定ができる状態を「自由」と思っていました。
しかし、仏教における自由は少し深かったようです。
「自由」という字は「自らに由る」と書くように、自らの意志を拠り所とすることを
意味した言葉であり、執着から解き放たれた状態であるということ。
仏教では「解脱」を表すこともあるとか。
そうなると、仏教でいうところの「自由」とは、外的要因ではなく、内的要因、
つまり自分の心のあり方を表すことばになります。
お釈迦様の教えによると、自己の欲望や考えに囚われず、無我の状態に至る事が
「真の自由」とされています。
私たちの日常は外部による刺激に反応してしまいます。
そして人任せにした結果、上手くいかなければ人のせいにしてしまいます。
自由と云う権利があるのなら、それに対する義務があると思います。
「自由」が「自らに由る」ものであるならば、
「自由」というのは、内側から湧き上がるものであると思います。
そうであるならば、外部の刺激ではなく、自分の内側から生まれ出るものであると
いう事になるし、己が自由な状態であるのであれば、無我の状態になって行くのでは
ないかと思います。
自分の内側から湧きあがるものに「自由」を見出す事ができるのなら、
心穏やかになれるのではないでしょうか。
その時こそがすべてのものを手放せた時だと思います。
この「自由」というものは、私がやっているヴェーダ瞑想にも通じると思います。
色々なものを手放し、何もない状態に自分を解放する。
それこそが、思いっきり「自由」を楽しめるのではないかと思います。
そして無の境地から帰ってきた時、自分のやりたいことが浮かんだら、
それが本当に自分の心の底から湧き出てくる純粋意識であり、
自分のやりたい事にあたるのだと思います。
無償の愛というのも、そこから湧き出てくるものだと思います。
見返りを求めず、自分が尽くしたいから尽くしている。
駆け引きの無い「自らに由る」純粋な愛だと思います。
じゃ、また明日!