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私たちは物事を直ぐに諦めてしまいがちです。
「あきらめる」を電子辞書の大辞林で調べたところ、
「明らめる」と「諦める」が出てきました。
「明らめる」は、
物事の事情・理由をあきらかにする。
心をあかるくする。心を晴らす。
とありました。
「諦める」は、
望んでいたことに実現が不可能であることを認めて、
望みを捨てる。断念する。思い切る。
とありました。
私の頭の中では、放棄したり、断念したり、ギブアップしたりと、
マイナスのイメージでした。
しかし、日本語の「諦」の意味では「明らかにする」という方に近いそうです。
「諦める」と「明らか」は言葉としては同源。
「物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められる」
というニュアンスを含んでいたようです。
私の中では、「明らかにする」という大切な土台の方が消えてしまい、
望んでいる事を途中で止めてしまうという意味で捉えていました。
「何かに挑戦しよう」とか、何かを始めても、上手くいかなければ
すぐに放り出し、諦めてしまっていたのです。
そして別のものに目を移し、諦めてしまったことを忘れてしまい、
同じことの失敗を繰り返すのです。
大切な土台の方の「明らかにする」を覚えていたなら、
どうして失敗したのだろう?と物事の真実の姿やありさまを明らかにし、
同じ部分での失敗は起こさなかったと思います。
その失敗の源は、手段が目的になっている場合があります。
目的に向かっているつもりでも、いつの間にか手段が目的になってしまいます。
例えばテストの目的は「自分のわからない所をはっきりさせる」という事です。
しかし、100点を取ることが目的になってしまい、90点や80点なら褒められ、
50点以下なら「勉強しろ!」と怒られる。
本来なら間違った50点の部分を勉強し直して理解していくはずが、
手段であるべきテストが目的となって、点数でしか評価されない。
という事になってしまいます。
これでは本末転倒になってしまい、テストの意味が消えてしまいます。
どこがどのように間違ったかを明らかにし、正しい答えを理解し直す所に、
本来のテストの意味があり、明らかにすることによって、
理解も深まるのだと思います。
私は本来大切な「明らかにする」方を忘れてしまい、すぐに「仕方がない」と
諦めてしまっていたように思います。
物事を明らかにした結果「仕方がない」となるのであれば、
きっぱりと諦めれば良いと思いますが、
明らかにしないで「諦めてしまう」のは、気持ちが中途半端になってしまい、
どこか気持ちにひっかかりを残してしまうような気がします。
今後、諦める場合は、ものごとの真実の姿やありさまを明らかにし、
その上で「現実不可能」の判断を下すようにしたいと思います。
じゃ、また明日!