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今の日本人は、誰も何も言わなくなりました。
政治家が可笑しなことをやっていても、やるべきことをやっていなくても、
市民は大人しく、何も言いません。
一部で言っていたとしても、市民運動として行動するまでには至っていません。
学校教育がまともではなくなっていると言われてから久しいのですが、
学校教育が人々を分けていっていると思います。
現在は色々な子どもがいます。学習に集中できないような子どももいます。
現在はそのような子ども達を支援するという事で、養護学校に向けられたり、
支援クラスが出来たりで、分断されて行っています。
学校教育が人々を分けると、クラスの中で少し皆と違う子を取り出して行き、
残った子どもは均一化された何も言わない子ども達です。
そして、物言わぬ無関心な市民が育ち、
民主主義国家としては機能不全になって行きます。
1990年代に「アダルトチルドレン」が言われるようになり、
どんどん内側に入って行って支援が急に増え、
子ども達は分断されて行きます。
2000年代になると経済の貧窮さによって、現在の問題が生まれてきました。
すべてを「生きづらさ」という言葉でくくられ、
個人の成長や心構えにすり替えられてきました。
それが「支援」という状況を生み、「NPO法人」へと移って行きます。
「政府はお金を出さないので、市民でやってください」というように
変わって来ました。
そしてNPOなどの市民福祉団体が積極的に活用されるようになりました。
人類学とは「人が生きることの条件と可能性を、じっくりと着実に探って行く学問」
よって、別の生き方を知る可能性もあります。
それは短絡的な国家批判ではなく、市民社会の主体統治という問題であり、
可能性です。
現在は主体がやられているので、みんなと一緒にやって行き、
「日常を政治経済につなげて考える」
自分で自分を認める状態を社会的に構想する時期だと思います。
声を上げる事を忘れていた日本人が、
声を出す事の必要性を感じ始めているのではないでしょうか。
「唄を忘れたカナリヤ」という童謡がありました。
唄を忘れたカナリヤは
後ろの山に捨てましょか
いえいえ それはなりませぬ
唄を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋(い)けましょか
いえいえ それはなりませぬ
唄を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
唄を忘れたカナリヤは
象牙の船に銀の櫂(かい)
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄を思いだす
唄を忘れた日本人は、
自分達が政治的な事も支えているという事を
思い出す必要があると思います。
じゃ、また明日!