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ものごとを知ろうと思えば、その根本は何かという事を認識する必要があると思います。
例えば日本古来の芸事でも、スポーツでも小さい時から稽古を積んでいきます。
特に古典の世界では代々その芸を受け継いでいくので、
稽古を積むより他はないようです。
稽古を積んだり場数を踏めば、その場数が教えてくれることがあります。
それを「会得」と言うようですが、知識としてではなく体得として
技術も身に付けて行くことになるのです。
「風姿花伝」によると、
花を知ろうと思うならば、まずその種の何たるかを認識すべきである。
花は心の工夫によって咲き、種とはその工夫を可能にする稽古の数々なのである。
と、あります。
稽古は所作の練習で具体的に目に見えるものです。
しかしその目に見える所作を続けていれば、いつしか目に見えないものが
わかってくるのです。
それは稽古を尽くす事を通じてのみ、
各々が体感的に伝承される目に見えないそのものだと思います。
これはスポーツでも瞑想でも同じだと思います。
最初は「型」から入り、「型」の内面が体得として伝承されて行くのだと
思います。
瞑想も外から見れば胡坐をかいて両手を膝に置く「型」のように見えます。
しかし本来の瞑想は、その目に見える「型」のようなものではなく、
個々人の内側で起こっている体感が、本来の瞑想というものです。
よって、その体得は人に見せるようなものでもなく、
己の中で己自身がその変化に気付き、進化していくものだと思います。
それは、師のコツのようなものを身に付けるのではなく、
稽古を尽くすことを通じてのみ、目に見えないそれとして伝承されうるものだと
思います。
何事も数を重ねる事でしか体得することは出来ないのではないかと思います。
そして体得したからと言って人に見せびらかすものでもなく、
その体得したものを秘かに伝えて行くのが、伝承というものかも知れません。
「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」(世阿弥)
じゃ、また明日!