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「試合」とは「試し合い」
と言うのは本日目にしたblogに書かれてありました。
本来の「試合」の語源は、勝負を競う「試合」はもとは「為合」と表記。
「~し合う」が語源で、後に「仕合」が当てられ、さらに「試合」が出現した。
と、ありました。(産経ニュース 続教育漢字考)
それはさておき、このblogで書かれていたのは、
「試合本番まで、自分がどれくらい積み上げてきたか。それは相手も同じこと。
その積み重ねたものを『試す』のが本番で、『試し合う』から『試合』なのです」
という事でした。
確かにスポーツ選手のインタビューでも、
「今までやってきたことを、そのまま出せれば良い」と言った答えをよく聞きます。
本番に強い人は、フィギアスケートでも
「朝の練習では4回転が出来ていなかったけれど、本番では見事に回りましたね」と
コメントされるように本番で実力を発揮する人もいます。
しかし、それとてそれまでの練習の積み重ねの結果であって、たまたま朝の練習では
うまくいかなくて、本番では上手くいったという事だと思います。
自分の積み上げてきたものを「試す」のが本番なら、その本番さえも次の試合の為の
試し合いのような気がしてきました。
よって、試合とは比較をするために相手との「試し合い」になりますが、
本当は自分との「試し合い」のような気がします。
自分が十分準備をしていなければ、緊張という体験があるだろうし、
十分準備ができていれば、練習をしてきた、その練習の成果が出せるという
ワクワク感を感じることが出来ると思います。
そういう意味では自分との「試し合い」になるのだと思います。
最近は自分の世界に浸り過ぎているのか、周りや他人の存在が薄れ、
全ての事は自分が招いた事であり、全ての結果も自分が積み重ねた結果だと
思うようになりました。
それが良い結果にしろ、期待外れの結果にしろ。
よって、「失敗」という文字も、自分の辞書ではかすんできています。
以前は「失敗」と言う文字が、自分の辞書では太字で書かれていたのに・・・。
自分が見えている世界は自分だけが見えている世界で、
それぞれの人が見えている世界は、それぞれの人が見ている世界であって、
人それぞれが全く同じ世界を見ているもではない。
と言ったようなことを読んだ覚えがあります。
その時は解らなかったのですが、何となくそれが解るような気がしていました。
自分が見えている世界は、自分が創っている世界。
よって、試合も一見他者との試合のようですが、その実、
自分との「試し合い」なのだと感じ始めました。
結果というものは、結局は自分の地道な積み重ねの表れだと思います。
自分との試し合い。
自分が一番の好敵手だと思います。
じゃ、また明日!