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【吉田松陰先生語録】
「体は私(わたくし)なり、心は公(おおやけ)なり。
私を役(えき)して公に殉(したが)う者を大人(たいじん)と為(な)し、
公を役して私に殉う者を小人(しょうじん)と為す。」
(御由緒・松下村塾)
体は私で、個別的なものであり、心は公で、普遍的なものでなければならない。
私の肉体を使って、身をかえりみずに公のために役立てる者は立派な人であり、
公である心を私の欲望のために満足させることに使おうとする者は、
徳のない取るに足らない人である。
(司馬遼太郎著『歴史の中の邂逅』より)
吉田虎次郎という名前のついた自分という存在と肉体は
あくまでも私的なものだ。
心は公的なものでなければならない。
さらに意訳すれば
『私(体)をこきつかって公に殉ずる者を小人(つまらぬ男)と言う。
小人が死ねば その肉体は腐燗潰滅(ふらんかいめつ)するだけのことだが、
大人(立派な人)は死すとも天地の理のなかで生きている。』
という。
・・・・しかし、死ぬことはこわい。
と品川弥二郎はたずねた。
こわくあるものか、
人間どうせ死ぬではないか、
寿命の長短など宇宙の悠久からみればたかが知れており
結局は『心は公』ということで生命をこきつかい、
それによって何事かをする以外に人生の意義はない。
以上、
「体は私なり、心は公なり」の解釈ですが、
一般社会でも、公務員でも、政治の世界でも、人間の生き方として
誰にでも通じる言葉だと思います。
人間には私利私欲があります。
その欲をどのように使うのか。
それがその人の生き方であり、死に方でもあると思います。
恩義を感じない人、大義のわからぬ人。
そういう人は「体」と「心」、「私」と「公」の区別が
わからないのだと思います。
自分の「公・私」がわからないまま人の上に立ったり、
人に何かを伝えたりすれば、混乱を招くだけだと思います。
私も「体と心」「私と公」を区別できる人間になりたいと思います。
じゃ、また明日!