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世の中には、と言うより自分の周りでさえ、沢山の無責任な声があります。
特にSNSの普及によって、いつでも誰でも簡単に発信できて、
繋がれることが出来るようになってきました。
訴訟問題まで起こる誹謗中傷や確信のない無責任な声。
それが及ぼす影響の責任はどのように取るのか、聞いてみたいです。
責任を取らないから「無責任な声」になるのです。
SNSの普及する以前でも、リアルで無責任な発言をする人は沢山いました。
しかしその発言は、その人の思い込みで発言しているか、憶測で発言しているか、
その人のストレス発散に過ぎないことがほとんどです。
その為に気を病んで落ち込んだり、寝込んだりする人もいました。
しかし、発信する自由もあれば、聞き流す自由・無視する自由もあります。
私も今までは、人の声はたとえ批判であっても真摯に受け止めて
考えなければならないと、思っていました。
しかし、SNSの声を聞いていると、その聞く時間が勿体なくなり、
有難いことに、表面的な意見は聞き流すことが出来るようになりました。
「こうするべきだ、ああするべきだ」と言う根拠のない発言を聞くよりは、
「自分の近くにいる人のSOSを聞き逃さない」方が、やっぽど大切です。
SNSで何か言ってくる人は、ほとんど会ったことも話をしたこともない人です。
そういう人がこれまたSNSから拾って来た情報を、さも事実であるかのように
話されても、心に伝わって来るものはありません。
それよりも、もっと身近で面識があり、自分の事を知っていてくれている人の
意見の方が価値があります。
そういう人の意見は、たとえ反対の意見であったとしても、話し込んで行くうちに
理解が出来、誤解も解けて行きます。
また、自分が間違っていたかなと思えば、素直に相手の考えを受け入れることが
出来ます。
無責任な声は進展がありません。
ただ相手を負かしたいというだけの声がほとんどです。
相手が少しでもへこんだら、それで天下を取ったように錯覚し、
一瞬の満足を味わっているのです。
しかし、その後時間が経つと、また誰かにかまって欲しくて絡んで行くのです。
今まで無責任な声に対しては、ほとんどが泣き寝入りでした。
しかし、これだけ多くなり、これだけ悪質になってくると、裁判で訴える人も
出始めてきました。
それは良い事だと思います。
今、裁判で訴える人は、お金のためだけではなく、
「自分と同じような嫌な目に合う人が二度と出てこないように」という想いで
裁判をしておられます。
そういう想いが膨らんで、無責任な声が野放しに漂うことが無いような
風潮になれば良いなと思っています。
発信する自由もあれば、
それを受け取らない自由もあります。
他人の声や評価を気にしていると、どうしても無責任な声が気になります。
瞑想をし始めてからは、そういう声に心を奪われることなく、
本当に大切な人の声が耳や目に残るようになってきました。
それを選択するのも自分自身です。
どの声に耳を傾けるかにより、自分の世界も違ってくると思います。
じゃ、また明日!