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よく「自分と向き合いなさい」とか「内観しなさい」とか言われます。
私も自分と向き合う必要があると思って、自分の苦手な事、逃げたい事を
はっきりさせようと思ったこともありました。
しかし、なかなか自分の中で現在苦手な事や、逃げたい事の原因を
探ることは出来ませんでした。
これかも知れない、あれかも知れないとは思うのですが、
「これが原因だ!」と言うものの確信が得られないのです。
いつも、心ここにあらず、の状態でした。
内観するという事は、外に目が向いていた自分が、
自分の内側に目を向けるようになる事です。
自分に目が向き始めると、外の世界の事はあまり気にならなくなりました。
なぜなら、外の世界に目が向いている間は、自分には目が向かないからです。
瞑想効果か、何もない状態、無の状態に自分を置くことが出来るようになり、
少しづつ自分を開放できるようになりました。
今は退職しているせいもあってか、名前も肩書も社会的な役割も、
何もない自分がそこにいるだけです。
外からの視点ではなく、自分の内側からの視点で観て行くと、
そこにはありのままの自分しかいません。
もしかしたら、ありのままの自分が自分の本質かも知れないと思い始めました。
自分の事しか見えないし、自分の事しか考えていなかった小さい頃。
その時の自分が、自分の本質で生きていたのかも知れません。
その自分が段々と大きくなるにつれ、我慢させられたり矯正させられたりして、
自分の周りに合わす事が生きる道だと思うようになっていった可能性があります。
その時に置いてけぼりにしてしまった自分が、自分の本質だったかも知れません。
内観して自分を見つめるという事は、この自分の本質の部分の事であり、
誰の影響も受けなかった純粋な自分のような気がします。
その純粋な時期には、親からも愛情やいろいろなものを貰っていたと思います。
しかしそれ以降、外の世界の影響を受けることによって、
それまでの純粋な自分、本質的な自分に蓋をしてしまったのだと思います。
周りに合わすことで褒められ、自分を出すことで怒られる。
それの繰り返しで、知らず知らずに自分の本質から逸れて行ったのかも知れません。
そう思えば、自分を知るという事は、
無邪気に遊んでいた小さい頃の自分を知ることであり、
外の世界の影響を受けて、外の世界に自分を合わそうとした頃の自分では
無いような気がしてきました。
外の世界の色が付き始めた自分ではなく、無色透明な自分。
私が思っていたよりも、もっと小さい時の自分に出会ってみたいと思いました。
じゃ、また明日!