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書道家の武田双雲氏の10年以上も昔のインタビューを目にしました。
文字を書く行為は「後世に残したい」「多くの人に伝えたい」という思いが、
言葉をさらに具現化して「文字」というものに変化させて行ったとか。
現代の私達でさえも、大切な事は後世に残したいと思うのは、
昔も今も変わらないと思います。
双雲氏は、筆の魅力を次のように述べておられます。
筆にはZ軸が存在しており、強く押せば筆先が開くし、
力を緩めると筆先が閉じる。
それを利用して、筆の線質が決まってくるのです。
その三次元の中に、深い曖昧な世界、
微細な変化だけで線を織りなしていく世界がある。
非常にシンプルな線の集合体なのに、無限に組合わせもある。と。
筆にそこまでの魅力があるとは思ってもいませんでした。
筆にはZ軸が存在しているから、三次元の中に線を織りなす世界があるなんて。
それが筆の魅力なのだと思います。
双雲氏は「自由に書く」という事は「基本に立ち戻る」きっかけでもある、と。
双雲氏は「自然に基本に立ち戻れる環境を作りたい」ということで、
「基本を学んでください」と押し付けたくなかったようです。
よって。当時の教室では、「自由に書いてください」と言っていたようです。
すると、すぐに壁にぶつかって基本が欲しくなる。
そうやって、基本の大切さに、自然と気が付くように仕向けたのです。
人は縛られている時は自由にしてくれと言いますが、
いざ「好き勝手にしてください」と言われると、何をやって良いのかわからないから
ルールを求めるようになる。
僕にとっての「自由」とは、規則を遊べる事。
ルールを遊べるくらいルールをマスターした人が、最大の自由者だと思う、と。
確かにそう思います。
私は全くの放任で育てられました。
姉は門限があったり、ルールがあって、私は全くなかったのです。
よって、自由すぎるから自分でルールを作り、自分で枠組みを作って行ったのですが、
それが普通のルールより厳しくなってしまったのです。
結果、門限のある姉は時々門限破りをし、門限の無い私は、姉の門限より早く
帰るのが当たり前で、しかもそれより遅くなりそうだったら、言われなくても
自分から電話を必ず入れていました。
何事もその状態だったので、時には私にもルールを作って欲しいなと、
思ったことがありました。
双雲氏は、書を書いている時は集中力だと言われるけれど、
「集中している時間は自分との対話の時間でもある」と。
常に社会と繋がっている状態から自分を切り離して、雑念を取り払って
自分自身と対話を出来る時間と言うのは、現代社会においては非常に大切な時間だと。
ただ、「集中する」と言うのは「無」になるという事ではありません。
揺らいでいるものを、何か一点に一気にスッと集める事だとか。
1つの文字を筆で書くには筆圧の加減から、
自由が故の基本が欲しくなり、
集中は無ではない。
と言ったように書を通じての感じ方や考え方、そして筆そのものからの
無限の組み合わせによって、その時々の「書」が出来るのだなと思いました。
瞑想は「集中」ではなく、何事も手放す考え方ですが、
書の流れは瞑想に通じるものがあるような気がしました。
じゃ、また明日!