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神戸新聞4月21日(日)の記事に「あえて不便 楽しさ生む」として、京大特定教授 川上浩司さんの「不便益システム研究所」のことが書かれてありました。
氏は最先端の人口知能を学び「手間を省いて楽にしてあげることが、人の役に立つ」と信じていました。
バブル経済崩壊などで景気が崩壊する中「これからは不便益の時代だ」という恩師の言葉を転機に、効率化の逆を行き始めました。
例えば、
富士山の頂上に登るのは大変だからと、頂上までエレベーターを作ったどうでしょう。
ヒットを打てる練習をするのは大変だろうと、誰でも必ずヒットが打てるバットを作ったらどうでしょう。
こういうものを作れば、余計なお世話というより、本来の意味が無くなってしまいます。
便利の押し付けが、人から生活することや成長することを奪っている。と言うのです。
私は、かつて目の不自由な学生さんの教室移動に、付き添いで離れた学舎にお伴したことがありました。
彼は必ず授業の前に食堂に寄って、自分のペットボトルに冷水を入れるのです。
初めての日、私がペットボトルにお水を入れようかと思いましたが「大丈夫です」と言うので、見ているだけにしました。
彼はいつもペットボトルの飲み口ギリギリまでお水を入れてピタッと止めるのです。
そうです、お水が入る音を聞いて、ギリギリのところでピタッと止めるのです。
これは彼の神業でした。
もしも私が手を出していたら、彼の研ぎ澄まされた能力の足を引っ張っていたことになります。
神戸の震災のみならず各地の震災直後では、電線がズタズタになって信号機が動きません。
信号機が倒れているくらいですから。
そんな時、人々に生まれるのは「譲り合い」の精神です。
マイカーによる大渋滞はあったものの、信号機が元に戻るまでは交通事故のニュースを私は聞いたことがありませんでした。
本来なら交差点など、信号機が無ければ交通事故があっても可笑しくはないのに・・・。
不便だからこそ、1人一人に「気を付けよう」という意識が芽生えたのです。
皮肉にも信号機が回復すると、また交通事故が発生し始めました。
本当に不自由な時は生活を向上さすのは必要な事だと思います。
しかし、これからAIの時代になればなるほど、便利と引き換えに自分の本来ある能力が奪われる可能性があると思います。
この便利さは自分から何を奪っているのかと心しておかなと、時代に飲み込まれて何も出来ない自分になるのではないかと思います。
もう、その世話を焼いてくれるアプリもあるようです。
道を通れば通るほど「もう道を覚えたでしょ?」と言って、道路表示が薄くなっていくスマートフォン用のアプリです。
なるほど、便利だ!
じゃ、また!