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城郭や文化財の石垣修復工事を手掛ける穴太衆(あのおしゅう)に、代々伝わる教えがあります。
そこで代々伝わる教えが、
「石の声を聞き、石の行きたい所へ持っていけ」
お城や古い城跡には石垣が残っています。
200年、300年前の仕事です。
今のようにクレーン車のない時代に、人の力のみで作り上げた石垣です。
長い間風雪に耐えて、現在も残っています。
大きさも形もバラバラな不ぞろいの自然の石をどう積み上げていくのか。
答えは、理論や理屈ではなく「石と積み手の1対1の語り合いである」という事です。
石の声を聞き、石と友達になったつもりで語りかければ、自ずと積めるとか。
この感覚は私にも覚えがあります。
能面を習っていた時、ただの木から粗削りをし、型紙を当てながらだんだんと細かくノミで削っていきます。
面の大きさの四角い木を段々と目や鼻の凹凸に削っていき、そこから細かくノミを変えながら削ります。
かなり顔の形に近くなりかけたころ、木から能面になる瞬間があります。
ただの木であった時には感じられない、魂の宿った能面になる瞬間があるのです。
そこからは、自分がどう打っていこうかと考える必要はなく、
ただ能面に言われるがままに彫れば(打てば)いいのです。
その段階では無心になっており、能面の方から「もう少しここを彫って(打って)欲しい」と言ってくるのです。
言われたところを彫ると「今度は、こっちを彫って欲しい」。
最後の完成まで、能面の言うがままに彫って行くのです。
そういう時はノミを持つ手が自然と動いています。
ノミの種類も細かく手が勝手に持ち変えて行きます。
穴太衆(あのおしゅう)が「石の声を聞き、石の行きたい所へ持っていけ」と言われるのと全く同じです。
全てが同じだと思います。
農業であれば「土に聞く」「野菜に聞く」「リンゴに聞く」
相手の声を聞こうとするから、その声が聞こえてくるのです。
「石を積まされている」「土を耕させられている」「野菜を作らされている」
「こんな仕事は嫌だ!」と思っているうちは、芯から作業に身が入りません。
石の声や、土の声や、野菜の声は聴いていません。聞こえてはいません。
相手の声を真剣に聞こうとした時「それでいいのだ」と答えてくれます。
これは、理屈や理論ではないのです。
理屈や理論でいくと「それでいのだ」とは言って貰えません。
穴太衆を継承する最後の1社である社長は、仕事を視察に訪れたある大学教授からの一言で、
仕事に打ち込み始めました。
「この仕事はあなただけのものじゃない。後世に残して行く技術です。
だから必ず身に付けなくてはいけない。それがあなたの使命ですよ」
「相手の声を聞き、相手のいきたい所に持って行く」
その相手というのは、自分自身のような気もしてきました。
じゃ、また明日!