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渡辺和子著『おかれた場所で咲きなさい』という本があります。
シスター渡辺は修道会に入って色々な苦労をされます。
アメリカから帰ってきて36歳の時に、初めての土地で学長という大役を負わされました。
「こんななずではなかった」と不平不満に悩まされ、自信喪失になって修道院を出ようかと思い詰めた時、
ある英語の詩に出会いました。
ラインホルド・ニーバー著「置かれた場所で咲きなさい」
置かれた場所で咲きなさい。
仕方がないと諦めるのではなく、人生の最善を尽くし、花のように咲くことです。
咲くことは、幸せに生きることです。
あなたが幸せになれば、他の人も幸せになります。
あなたの笑顔が広がっていきます。
あなたが幸せで、それをあなたが笑顔で示せば
他の人たちもそれがわかり、幸せになります。
神はあなたを特別なところに植えたのです。
もし、あなたが他の人たちと分かち合うことを知れば、あなたの人柄は輝きます。
「輝く」ことを「咲く」というのです。
神が私を置いた場所で私が花開くとき、
私の人生は人生の庭で美しい花になるのです。
置かれた場所で咲きなさい。
この詩を読んでシスター渡辺は、自分が「わかってくれない」「ねぎらってくれない」「ああしてくれない、こうしてくれない」と、
自分が「くれない族」になっていたことに気付きます。
不平不満ばかりでは、自分は環境の奴隷でしかないと思い、自分が自立しなければならないことに気付かれます。
そして、人間として生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり、自分の花を咲かせようと決心したのです。
今日、ある方から「花は今置かれている状況で咲かなければ、その花の価値はなくなる」という言葉を聞きました。
今、自分の置かれている場所、立場には、それなりの意味があると思います。
その意味に自分が気付かなければ、その足元の栄養を吸収することは出来ません。
人に与えられたと思っている場所も、もしかしたら自分が選んだ場所なのかも知れません。
以前blogで雑草のことを書いた覚えがあります。
雑草はたまたま飛ばされてきた場所で、コンクリートの割れ目や石垣の間から咲いて強いなと思っていました。
しかしそうではなかったのです。
雑草が生き延びるためには、コンクリートの割れ目や石垣の間など、他の植物が選ばない場所が都合良かったのです。
雑草は自分で生きる場所を選んでいたのです。
私自身、今いる場所は自分で選んでいるのだと思います。
そこで自分が花を咲かせているかどうか。
「花は今置かれている状況で咲かなければ、その花の価値はなくなる」
今一度、考えてみる必要があると思いました。
じゃ、また明日