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コロナのお陰で、早朝散歩が復活しました。
毎朝家を出た瞬間、行きたい方向に足を向けます。
方向は同じでも、できるだけ通ったことのない道を歩きます。
よって、山の方に行けば、行き止まりになる所がしばしばあります。
慣れてくると、この道を曲がったところは行き止まりかもしれない、と感じる所もあります。
しかし、それはあくまでも「かもしれない」のままで、自分の頭の中には断定的に「行き止まり」とは書けないのです。
それを繰り返していると、自分の頭の中の地図は「かもしれない」マークがあちこちに点在してきます。
今日は、それをはっきりするべく「かもしれない」道を進みました。
やはり曲がった途端、行き止まりでした。
しかし、これで自分の頭の中の地図に「行き止まり」とはっきり記すことが出来ました。
それと同時に「行き止まり」の地点からは海が見えました。
「えーっつ!こんな所から海が見える!」それは行き止まりからのプレゼントでした。
自分の地図は自分が真っ白な紙に筆を入れていくものと思っていました。
しかし、それは所詮無理なことです。
なぜなら、どこへ行くにも、すでに道路は舗装されており、路地に至ってもすでに道があるからです。
強いて言えば、山の竹林を自分で切り開いて新しい道を作るしかありません。
考えてみれば、生まれた時からすでに先人の道を歩いています。
自分が赤ん坊の時は、親に抱かれて親の知っている道を進みます。
その親は、そのまた親に抱かれて先人の道を歩いたはずです。
結局は、新しい地図ではなく、自我が芽生え始めた頃から「自分の行きたい道を自分で選ぶ」ということが、自分の地図を作るということではないでしょうか。
同じ目的地であったとしても、親が指し示す道筋、先生が指し示す道筋、先輩が指し示す道筋、師が指し示す道筋。
色々な道筋の中で、結局は自分が進みたい道筋を選ぶという事になると思います。
スピード重視なら、最短距離で行ける道筋を選ぶし、景色を楽しみたいのであれば、景色の奇麗な道を選ぶであろうし、花が好きならば、花の奇麗に咲き誇っている道を選ぶと思います。
結局は自分がその時々の目的によって、道を選べばよいのです。
それが自分の地図を作ることになると思います。
親や先生の地図にばかり頼っていると、親がいなくなった時、途方に暮れてしまいます。
その時点で1歩も進めなくなります。
よって、自分の地図は自分で持っておく必要があります。
自分の地図を持っておけば、誰と歩いても、その人と違う道筋に来た時、どちらがその時の目的によりよい道筋か、その時点で選択すればいいのです。
自分の知らなかった道だけれど、相手の方が合理的だと思えば、知らなかった道を自分の地図に新たに付け加えれば良いのです。
そうなってくると、
自分の地図を持っていない人と歩くのか、
簡単な自分の地図を持っている人と歩くのか、
色々な進み方を書いている地図を持っている人と歩くのか、
によって違ってきます。
自分がより可能性のある道を選びたければ、色々な進み方を書いている地図を持っている人と歩きたくなるし、
そういう人に一緒に歩いて貰える自分になっておく必要があると思います。
そうなれば自分の中の「かもしれない」道は、どんどん正確なものに書き換えるべきだと、今朝の散歩で思いました。
じゃ、また明日!