人は「希望」を持つか持たないかで大きく人生が分かれます。ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」でも、ナチスの強制収容所での辛い生活の中、「もしここを出たら自分は何がしたいか」を考え続け、他の人達が希望を失って行く中で、「生きることには意味がある」と、希望を持って生き続けるのです。
希望を持つということは自分の人生を大きく変えることでもあります。若い時は希望を持って社会生活を送っていた人でも、退職後の生活の仕方によって分かれてきます。
「もう年だから、毎日を無事に過ごせればそれで良い」と、ただ何となく生きているのか、「残り時間をどう生きるのか」と考えながら生きていくのか。
「ただ何となく」の中からは何も生まれません。反対に「どのように生きようか」と思う人は、自分の人生の最期の最後まで、花を咲かせようとしている人です。たとえそれがどんな花であったとしても、咲かせようとする所にその人の人生の意味があるのだと思います。
古代ギシリャのアリストテレスの言葉に「希望とは、目覚めている人間が見る夢である」と言われるように、古代ギリシャからそのような考え方があったのだと驚きました。
と、言うよりは、反対に現代の私たちがアリストテレスの考えを脈々と受け継いでいるということです。
目的に向かって真っすぐに突き進む過程こそ、希望を持って生きる姿ではないかと思います。
今の日本はあまりにも希望がなさすぎます。それは小さい時から安心、安全を選び過ぎたのではないかと思います。
勿論、安心、安全は大切な事です。街を歩いていても安心だった日本が何が起こるかわからなくなりつつあります。
よって、かなり警戒しないといけなくなりました。
しかし、自分の生き方や心まで警戒しすぎると「変化しない自分」で凝り固まってしまいます。
そうなると「変化した先にある未来」を見ることが出来なくなるので、夢も希望も持てなくなるのではないかと思います。そして、人生に意味などないと思い、自分には価値が無いと思い、折角の一度きりの人生を自ら断ったり、ただ何となく時間を過ぎるのを待っているだけの人生を選んでしまっているのです。
「目覚める」と言うのは、心の奥底にある自分の本心に目覚めるということです。決して世間の価値観に左右されることではありません。「自分はどう生きたいのか」「何を選択すれば自分はしあわせと思うのか」それに気が付いた人が、希望を持って夢に進めるのではないかと思います。
じゃ、また明日!