学生の頃は、人間は火葬されるとリンやカリウム、カルシウムやマグネシウムになって消えていくのだと、思っていました。よって消えてしまって終わり、と。
しかし、最近になって魂の存在を忘れていたことに、気が付きました。
学生の時は肉体も魂も、同時にそれで終わりと思っていたのですが、最近になってそれらは別々のものであると思い始めました。
なぜなら、魂の被り物が自分の肉体であるという発想を知ったからです。
面白いことに、母親が亡くなってから3年後に裏の空き地で生まれた野良猫と出会いました。その時は母猫から乳離れの時期で突き放され、他の兄弟姉妹はそれぞれに空き地から出て行ったのですが、その猫だけがずっと鳴き続けていました。鳴き声を聞き続けていて、いたたまれなくなりミルクをあげてしまい、やって以上は責任をとらなければと、避妊手術をしてから空き地に戻そうと思っていたのです。
しかし、避妊手術をしてからもウチに来るようになり、結局同居状態が続いています。その猫が母親の性格そのものなのです。毎朝6時に起こしに来て入れるのも母と同じだし、私以外の人間は絶対に逃げるのに、私に対する心遣いや遠慮する所など母の性格そのもので、猫の皮を被った母だと思っています。そして叱るような事は一度もなく、むしろ時々気付かせてもらっています。
それもあって、肉体は魂の被り物という発想が私の中で生まれてきました。宗教やスピリチュアルのことはわかりませんが、輪廻という流れの中で魂は生き続け、また新たな「私」が新たな肉体を被って生きるのだなと思います。
そうなると「死」というものは終点ではなく新たな自分の始まりのような気がしてきて、今の自分の被りものは1回限りの「生きている証」になるのだなと思います。
それが良く耳にする「人は何のために生まれてきたのか」「自分は何をするために生を受けたのか」「自分の使命は何なのか」ということになるのだと思います。
「自分を生きる」ということは、肉体を生きることは勿論ですが、それ以上に自分の魂を生きることだと思います。私など、残り時間が少なくなっていますが、「どう生きるか」よりも「どう死にいくのか」の方が大切になってきます。
肉体は滅んでも魂は生き続け、また新たな自分に向けて、準備するのかも知れません。
「人生は一度きり」と言われますが、その一度きりのために、私たちは何かを成すために生まれてきたのだと思います。大きなことではなく小さなことでも、何か人さまの役にたつようなことをするために肉体という被りものを被ってこの世に出てきたのだと思います。
そして自分は何をしにこの世に来たのだろうと、追求し続けることが生きている証になるのだと思います。
じゃ、また明日!