私たちは毎日、何らかの問題に出くわします。大きな問題であったり小さな問題であったり、それはその時々によって違いますが、いずれにしろ問題の無い日はないくらいです。
人とのいさかいなど、腹が立つときは反射的に「相手が悪い」と思って、相手を責めるような考え方になってしまいます。しかし大概の問題は、よくよく考えれば自分がその種を蒔いている時が多いのです。
なぜなら、相手が怒っている時なぜ怒っているかを考えたら、その怒る前に自分が吐いた言葉や思い込みや、自分の態度、行動が理由だったりします。
そこを見ないで、最終場面だけを取り上げて「相手が悪い」と言うのは、自分の世界を狭めてしまうことになります。
「自分が蒔いた種は自ら刈り取る」と言われるように、自分が蒔いた種は忘れないようにしたいものです。
今、桜が満開ですが、日本の春は桜に象徴されます。桜並木を見ているだけで、心が優しくなります。散歩コースにしている川沿いでは、今年36本もの桜の木が1か月ほど前に切られてしまいました。古いものでは100年ぐらい前に植えられたとか。
確かに幹は穴が空いていたり、見るからに老木もありました。しかし、それでも満開の桜を咲かせてくれていました。
多分、老木なので台風などで倒れて来て事故でも起こればということで切られたのだと思います。反対に2~3年前に植えられた桜は、まだ細い幹に少しの桜を咲かせています。桜は長い年月を経て、人々に春を感じさせてくれるのです。
その1カ月以上も前は枝だけの何もない桜並木に1本だけ真っ赤な寒椿が沢山の花を咲かせてくれました。
冬の灰色の空の中でその真っ赤な椿は周りを明るくしてくれていました。
それぞれの苗木から花が咲くまでにはスピードが違います。早く育つのもあれば、じっくり時間をかけて育つのもあります。
人も同じだと思います。人間が育つ時間はほぼ同じですが、それでも赤ちゃんの時には差があり、お母さんは他の赤ちゃんを見て「ウチの子はまだそこまで出来ない」と、心配したりします。しかし、年数が経てばそういう心配は必要なかったと分かります。
親が子どもにどのような種を蒔き、どのように小さな芽を育てるのか。それによっても咲く花は違ってきます。
怒りの種を蒔くのか、喜びの種を蒔くのか。哀しみの種を蒔くのか、しあわせの種を蒔くのか。その違いが大きくなった時に咲く花に違いが出てくるのだと思います。
親は結果だけに目を向けがちですが、本当は育てるその過程で経験出来たり学んだりすることを、親は見失ったりしてしまいます。
待つ事や見守る事を学べるのに、早く花を咲かそうとします。急かされて育った花は早く咲かせなければと焦り、早く散ってしまいます。遅い遅いと言われた花は、遅く咲いた分、長く喜びを与えられる花として育っているのかも知れません。
人には育つ速さの違いがあります。人々を喜ばせるような見事な花を咲かせるのは、それぞれがどんな手間を掛けて育てたか、これも自分が蒔いた種の結果です。それと同時に蒔かれた種はある程度大きくなると、自分がどのようにこれから育ちたいか、これもまた自分が蒔いた種になるのだと思います。
どの花も他の花を見て羨ましがるのではなく、蒔かれた場所で精一杯花を咲かせているのです。
だからその集合体を見た時、人々は感動し、自然の美しさを与えて貰っているのだと思います。
じゃ、また明日!