人はしあわせになる為に生れてきたと思います。人それぞれしあわせの定義は違うかも知れませんが、しあわせだと感じられる感情を得ることがいかに大切かと思います。これは人間だけではなく、動物も同じだと思います。殺処分される寸前の犬の表情は恐怖と哀しみで一杯です。人間の勝手で産まされ、人間の勝手で捨てられる。片や、ひん死の状態で目も見えなくなっている野良猫が助けられ、病院に連れて行ってもらって里親の元で暮らすようになると、不安は消え、何とも言えない満足そうなしあわせな顔に変わります。
人も動物も同じですが、生きる目的は「しあわせに生きる」という事だと思います。そこに命の尊さが宿っているのだと思います。よって人はしあわせに成れるよう、日々努力をしているのだと思います。私も死に際は悔いの無い人生だったと思って去りたいと思っていますが、これも裏を返せば、自分の思うような人生が送れてしあわせだったと言いながら去っていきたいと思っています。
そう思えば、日常の中でもしあわせだと感じることが出来、自分のしあわせは何かと考えれば、自分の生きざま自体もしあわせに繋がっていきます。しあわせな感情を得るために仕事もするし、勉強もするし、遊んだりもします。自分がしあわせに成るには、自分が主人公で自分の主体性で生きる必要があると思います。
自分がしあわせな感情を得るという目的を見失うことが無ければ、その都度の判断や選択が変わってくると思います。そして、自分がしあわせに成るという事は、他者をもしあわせにすることです。相手の気持を察して、それに応じた行動がとれるよう、意識することもあると思います。
相手の想いを組んで共に考え、寄り添う事が出来れば、自分もしあわせだし、相手もしあわせだと思います。それが人間関係を深めることにも繋がってくると思います。
大切なものは目に見えないと言われるように、しあわせも目には見えなく、感じるものです。そして、目に見えるものは分けると減りますが、目に見えないものは分けると増えると言われます。相田みつをさんの詩に「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」というのがありますが、まさしくそうだと思います。
目に見えない優しさだったり、思いやりだったり、親切だとか労力だとか、そういうものは人にしてあげると、必ずと言ってよいほど、また誰かから返ってきます。そういう時にもしあわせを感じます。
人は誰かのために多くの時間や労力を費やすと、それがいつか与えた以上の支えや協力を、誰かから得るようなことが起こります。不思議な現象ですが、しあわせがしあわせを呼ぶような感じです。そして、分ければ分けるほど増えるのが「愛」のようです。
社会でも家庭でも子育てでもストレスが溜まると言われますが、自分のしあわせは自分が判断し、選択していくしか感じることは出来ないのだと思います。うばい合う選択ではなく、わけ合う選択を!
じゃ、また明日!