私は昔から「マイナスの美」の美しさが好きでした。季節も最も寒い「寒の季節」が好きでした。なぜなら、空気中の要らないものもすべて寒さが閉じ込め、そぎ落とされた凛とした空気の中での月は、より一層綺麗に見えるからです。そういう何もかも捨てて何もつけていない「マイナスの美」が一番美しいと感じていました。
お化粧をしたり、宝石を付けたりして輝いている人もおられます。きらびやかに光り輝いている人もおられます。しかし、私は何も付けていない「マイナスの美」に目が向いてしまうのです。そうであるのに、人生は要らないものを付けすぎているかも知れません。
以前よりは自分にとってあまり必要でないものは手放して行っているのですが、まだまだ手放す必要があるようです。それはある意味自分以外のものを手放す、つまり、他人を気にせず、自由に自分を生きるという事かも知れません。
昔の自分は、他人と比べて他人を基準に自分を見ていたような気がします。それは誰かほかの人が作った価値観の下での生き方でした。他人が敷いたレールの上を脱線しないように気を付けて走っていました。そこでは自分を生きているつもりでも他人を生きていました。自分で判断・選択したものでは無く、誰かの、或いは世間一般と言われている価値観に乗っかっていたように思います。そこには「自由な自分」というものはありませんでした。自分で自由に生きているつもりでしたが、他人の手の平の中で生かされていたようなものでした。
何を捨てるかと言った時、他人の作った正解を捨てるのが良いのかも知れません。自分が判断・選択して同じになったのならそれはそれで構いませんが、自分が何も考えずに他人に合わすのは自分を生きているとは言えないのです。
誰かの正解を捨てて、自分の正解を残すのが自分を生きることになるのだと思います。
1日24時間のタスクを考えてみても、無駄なものはあると思います。ただ、今まで必要だと思っていたからタスクの中に入れていたけれど、よくよく考えれば、あまり必要では無かったかも知れません。もしかしたら自分が習慣的にやっていたことは、自分の安心のためにしていた可能性もあります。
何を残すかは、自分の人生の目的を軸として、その目的に沿って必要なものだけを残せばいいのではないかと思うようになりました。残すべきものは、ヴェーダ瞑想で言う所の純粋意識から醸し出された「自分が本当にやりたいこと」それではないかと思います。自分がどのように生きたいのか、どのように死んで行きたいのか。それに尽きると思います。
じゃ、また明日!