何気なくパソコンで検索していたら、「○○になりたい」人を募集している記事が目に付きました。最近、AIに操られているのか、一度検索したら同じようなモノばかりしか流れて来なかったり、検索に引っ掛かったりします。今の時点で大きなお世話と思う位だから、もう暫くすると完全にAIの手のひらで踊らされるのだろうなと思います。
ある意味、AIの技術は進んでいるので、同じ情報しか与えてくれなくなりました。本当は反対の意見や違う見解の意見を見たかったのですが、同じような意見ばかり。それでなくても「情報弱者」の認識があるのに、尚のこと視野が狭くなりそうです。
そんな中、「○○になりたい」という文字がやたら目に入って来るのです。以前なら「そうだねー、なりたいんだよねー」で穏便に流していたと思うのですが、今は「○○になるのは自分しかいないよ!」と突っ込んでしまいます。「なりたい」は、いつまで経っても自分の願望であり、それを行動に移してこそ、実現できるのです。
「なりたい」と「なる」の違いは、意識の違い・覚悟の違いだと思います。「なる」を前提で生きていくと、その先の「なった時」の物語を描くことが出来ると思います。「なりたい」も、なった時の物語を描くことが出来ると思います。しかし、そこで違うのはなった時までの過程=プロセスを描くことが出来るかどうかの違いです。
「なる」には、なる為の具体的なプロセスを考えると思いますが、「なりたい」はあくまで願望でじっと口を開けて待っているのです。白馬の王子様を待っていても、来てくれません。自分から探しに行かなければ、すれ違う事すら出来ないのです。
最近では「白馬の王子様」と検索をすればAIが何枚もの写真を見せてくれます。しかし、いくら写真を見せられても、それ以上近ずく事は出来ません。近ずく為には自分からその写真の発行元を探したり、googleで画像検索をしたりする必要があります。これも自分から動かないと、前には進めないのです。
「なる」は動詞で、「なりたい」は「なる」の希望表現です。とAIさんは教えてくれました。つまり、動詞と希望表現の違いが、実際に自ら動くのと、棚からぼた餅で口を開けているだけの違いになってくるようです。
最近よく耳にするのが、「やるか やらないか」「するか しないか」があります。これらもすべて動詞なのです。人は動作を表す「動詞」でないと、前に進めないようです。純粋な意識を持った赤ちゃんは「寝る」「飲む」「遊ぶ」「立つ」「歩く」とすべて24時間、動詞で生きているように思えてきました。もしかしたら、これが本来の人間の姿なのかも知れません。
余計な情報が入ることによって、希望表現が多くなってきそうです。小さい時は大人の人によく「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたものです。そしてその応えに「○○になりたい」と返していました。これも聞き方を変えて「大きくなったら何になる?」でも良かったのかも知れません。
なぜなら、イチロー選手や大谷選手、オリンピック選手など、今一流と言われている人達はすでに小学校の時から「野球選手になる」「オリンピックに出る」と、決めていたようです。よって、結果的に実現しなかったとしても、小学校の時からの質問の仕方を「大きくなったら何になりたい?」というよりも「大きくなったら何になる?」と聞いても良いかもしれないなと思った次第です。
じゃ、また明日!