私たちは誰でも人に認められたいと思います。人に認められるから自分の存在意義を感じることが出来るのであって、認められることが無ければ「心が空っぽで満たされない自分」がいます。これと言って不満は無いのに、なにか辛い。「しあわせなのにしあわせと感じられない自分は、ダメな人間なのだ」と。
独身の時はそれなりに活躍していた人が、結婚して家庭に入り家事育児もしっかりやっているのに「しあわせなはずなのに辛い」と感じてしまいます。しかし、そんな気持ちを人に話しても分かって貰えないから、自分の中に閉じ込めてしまい、どんどん自分の気持ちがわからなくなってくるのです。
そして表面的には「自分は満たされている」と必要以上に口にして自分でそう思い込むようにし、無理やり自分の気持ちを納得させています。本当は、どんどん仕事をしていたので「本当はもっと人に認められたい」という欲求があったのです。
よって、それを隠すかのように自分は家庭を守ることと、子育てをしっかりやることが自分の勤めとばかりに、責任を果たしていたのです。そして何か自分の希望を聞かれても「家を空けることは無理です」「外に出るなんてとんでもない」と言うように、自分で自分の可能性を潰して行ったのです。
よって、何もかもが家庭優先になってしまうので、自分の意見など出て来なくなりました。そしてそれが自分の人生の当たり前のしあわせだと信じていたのです。いつも子ども優先、主人優先で自分より家庭を優先する、ということは素晴らしいように思いますが、その分、自分が無くなって行くのです。
でも、そういう人でも「自分を認めてもらいたい」という気持ちは持ち続けているのです。しかし、それは他者から認められるべき「自己実現の場所」が無かったのです。よって、いつも頭の中では「何もしていない自分」を感じるようになり、「脳は進みたいのに、止まったままでいる」という息苦しさが身体の不調になって来るのだと思います。
よって、家庭の中ででも何かやりたい事、熱中出来ることを実現できるような行動を取るようにすると、少しはその辛さから自分を解放することが出来ると思います。「何もしていないこと」に罪悪感を持つ必要などないのです。
何でも良いから自分が少しでもやりたい事を家庭の中から見つけ出し、それをどんどん追求していけば、自分の中のモヤモヤは少しは解放されると思います。
例えば、パン作りでも、洋服作りでもやれば、それは自分のやりたい事でもあるし、出来上ったものは家族の喜ぶ事でもあるのです。そういう自分が何かをやって、それを認めて貰えるような場が人には必要なのだと思います。
社会で仕事をしている人のみならず、家庭に居ても、家事労働や子育てもりっぱなことなのに、世間では当たり前のこととして、見過ごされます。それによって「しあわせなはずなのに、しあわせでない」と言ったような気持ちになるのは、やはり自分を認めて貰えることが無いからだと思います。
どのような場でも「自己実現」の場になり得るということを忘れないでいたいものです。
じゃ、また明日!