人は新しいことをやったり、本気になることに恐怖を覚えます。私もなかなか一歩を踏み出せません。それは何故かというと、未知の恐怖があるからです。その先には何があるかわからないから恐怖が生まれてくるのだと思います。
その何があるかわからない恐怖というのは、今、自分が手に持っているものを手放さなければならない恐怖、失う恐怖かも知れません。手放すから新たなものを掴むことが出来るのに、新たなものを掴みたいと思うのかどうかがわからないので、今持っているものを大切にしたいのかも知れません。よって、なかなか手放すことが出来ないのです。
しかし、それは本当に恐怖なのかどうか。今、自分が手に持っている人達から見捨てられるのではないか、見放されるのではないかという恐怖かも知れません。しかし自分が今まで掴んでいた大切な人と同じように、新たに大切な人と出逢う可能性もあります。一段レベルの上がった段階で。
それは自分を成長させるチャンスの可能性でもあると思います。自分が本気になって何かに取り組む世界には、やはり同じように本気になって取り組む人がいるのです。そういう人と出逢うチャンスに一歩踏み出すことによって、得ることが出来るのです。そこで出逢う大切な人は以前にも増して信頼度の高い人だと思います。なぜなら自分の恐怖と戦ってきた人だからです。そういう人は愛ある人が多いです。
人は誰しも愛を求めて生きていると思います。赤ちゃんが笑うのも親の愛を求めて自分に振り向いて欲しいからです。恐怖や寂しさを埋めてくれるのも愛です。人は「自分が出したものを受け取る」と言われますが、それも自分の愛を出すから人から愛が返ってくるのです。
一般的に愛というと、独占欲とか嫉妬がつきものです。しかし、すべてを包み込むのが愛だと思います。束縛する愛から開放する愛へ。そこには信頼関係が築かれ、信頼愛が成立すると思います。互いの世界を認め、物理的距離があったとしても揺るがない愛。互いの人格を尊重してるが故に愛され感が備わっているのです。
人は愛されたい人から愛されている実感があると、自己肯定できるようです。特に子どもなどはそうだと思います。親から愛されている実感があるから自己肯定の確立した子供が成長していくのだと思います。よって、愛されたい人に愛されることがその人の成長にとって重要になって来ると思います。
親や兄弟姉妹であっても、友達であっても、恋人・夫婦であっても、相手の良い所も悪い所も認め合い、議論をしても喧嘩しても、あらゆる感情的な事も、すべて包み込むのが愛だと思います。自分が大切にしている人達には、そういう愛を出していきたいと思います。
じゃ、また明日!