「出逢って出逢わず」とは、自分に求める気持ちが無いと、どんな素晴らしいご縁に出逢っても、そのご縁に気が付くことがない。ほとんどの人は、出逢いの縁を無縁にしてしまっている。と言う意味です。
私も「ご縁」と言うのを意識し始めたのはここ5~6年のことです。それまでは「ご縁」と言う言葉は全く意識していませんでした。しかし、自分の人生を振り返ってみても、やはりその出逢いはご縁でしかないなと思う事ばかりです。
「自分の求める気持ち」がやはりご縁を招いているのだと思います。それは「自分の興味あるもの」が意識化されるから、それに関連のあるものに対してはアンテナが反応するのだと思います。街中を歩いていても、身内にお腹の大きい人がいればやたらお腹の大きな人が目につきます。その年に限って極端に増えていると言う訳でもないのに、あちらでもこちらでも、お腹の大きな人が目に入ってきます。
また、会社と言うものに興味があった時、歩いているとやたら看板が目につき、あの会社はここにあったのだ、この会社はあそこにあるんだと、建物を見ても会社名しか目に入って来ませんでした。自分がフィットネスジムに通い始めると、同じ所を歩いていても、あそこにもジムがあったのだ、こっちにもジムがあったのだと、改めてジムの存在が目に付きました。
と言うことは、自分が興味あるから目に飛び込んでくるのです。興味が無ければ見過ごしていると思います。同じ話を聴いても、聞く側の姿勢によって受け止め方は全く変わるのと同じです。どんなに良い教え、出逢っても、求める心が無い限り、出逢って出逢わずの状態だと思います。
そのご縁のチャンスを逃がさない為には、常日頃から自分の目指すものを願い続けることだと思います。少し難しい事でも、最初から「自分には無理だ」と思ってしまうと、ご縁はそこで切れてしまいます。ダメ元で夢と希望を持って叶い続ければ、いつしかご縁がご縁を連れて来て、自分が思う世界が実現される時が来るかも知れません。自分は低い山でよいのなら普段着で普段の靴で良いかも知れません。しかし、富士山の登頂を目指しているのなら、それ相応の準備が必要だと思います。求める心が結局はその方向に導いてくれるのだと思いました。年齢などは関係ありません。自分が「やる」か「やらない」かだけです。
その違いが「出逢って出逢わず」になって行くのだと思います。偶然の出逢いから、年月が経てば、切っても切れない「ご縁」になって行って、自分の人生を変える場合もあります。それは自分が本当に望んでいた事に結びつけてくれるのです。人生とは面白いもので、自己実現を意識しているかしていないかによって、「出逢って出逢わず」になり自分の人生が形作られるのだと思います。
私自身、何人かの人と出逢っていますが、それぞれに持っているものを教えて頂いたと思います。そのきっかけが、それぞれ偶然の「出逢い」だったと思います。そしてその生きざまを伝えて頂いたことが、現在の私を確立してくれているのだと思います。
人間、死ぬまで出逢いのチャンスはあると思います。それを自分の人生の一部にするか、無縁のまま通り過ごすか。これもご縁の1つだと思います。自分の求める気持ちを大切にしたいものです。
じゃ、また明日!