人間は「しあわせになる」ために生まれてきたのだと思います。しかし自分の「しあわせ」は人それぞれ違います。安定=しあわせだと思う人もいれば、チャレンジ=しあわせだと思う人もいます。それはその人の価値観であり、生き方であり、あり方だと思います。
誰しも自分の肉親や知人、友人など親しい人にはしあわせになってほしいと思うので、不安を感じたら「やめておいたほうが良い」と、忠告します。それは非常にありがたいことであるし、うれしいことでもあります。しかし、自分がチャレンジをしたいと思っている時に「やめておいたほうが良い」と連発されると、誰の人生を歩むのかなと思ってしまいます。
もしかしたら、失敗するかもしれません。しかし、自分の人生だから失敗してもチャレンジをしたいと思ったときは、チャレンジしてよいと思います。なぜなら、周りの意見を聞いてチャレンジしない人生を送ったとしたら、自分に悔いは残らないだろうかと思うからです。
人から見て不安や心配があったとしても、チャレンジする意味はあると思います。なぜなら、安心を求めて今と変わらない生活、現状を維持する生き方が自分はしあわせなのか、はたまた、新しいことにチャレンジする自分がしあわせなのか。これを決めるのは、自分しかいません。周りの心配してくださっている人の声を聴いて現状維持を選んだとしたら、自分は後悔しないだろうか。と、思ってしまいます。
例えば野球などで監督が選手に「思い切ってやれ!」と声をかける時があります。選手は監督から言われたように、思いっきりバットを振ります。たとえその時選手が失敗しても、監督は何も言いません。なぜなぜなら、「すべてのチャレンジはナイスチャレンジ」だからと思っているのです。
テクニックよりもチャレンジする姿勢こそが大切である。と、いうことです。勝ち負けにこだわることなく、「自分の思った通りに、なすべきことをなせ!」これが監督の意図的なものだと思います。そのなすべきことは、勝ったら勝ったで、負けたら負けたですべて自分の経験として、自分の可能性を育てていくのだと思います。その代わりは誰もいなく、自分だけのものです。
安全を選んでバットを思い切り振らなかったら、点数としては何も変わらなくても、自分の心の中には空洞ができるのではないかと思います。
チャレンジをしない安定がその人にとってしあわせなのか、チャレンジをする冒険がその人にとって幸せなのか。それは本人の選択しかないと思います。他人がいくら心配してくれても、たとえ失敗したとしても、自分がチャレンジする冒険を選んだならば、その後の結果がどうなろうとも、その選択はその人にとっては最善の選択になるのだと思います。
そして、そのチャレンジはその選択をした人にとっての安定になるのだと思います。チャレンジをしない安定を選んだ人とはまた違った、その人なりの心の安定だと思います。
右を選ぶか左を選ぶか、それは自分自身の未来です。
じゃ、また明日!