最近人と話をしていても、その人が外を向いて話しているのか、内を向いて話しているのか感じてしまう時があります。以前はこのような感覚はなかったのですが、いいのか悪いのかそれを感じてその人との距離を感じてしまいます。
その人の価値観と自分の価値観は違います。その人の当たり前と自分の当たり前も違います。この人は自分の考えの中でのみ生きているのだなとか、この人は経験値の中だけで納まろうとしているのだなとか、この人は他人の意見に従っていきているのだなとか、今までなら感じなかったが故に何もそれ以上は思わなかったけれど、最近は感じるが故に、諦めが先に立ってしまいます。
諦めが先に立ったからと言ってコミュニケーションが取れなくなるのではなく、その人にはそれ以上理解してもらうのは無理だと察して、その人の領域として聞けるようになったということです。以前のように何としてでも理解してもらおうとか、わかってもらおうとか無駄な時間を使わなくなったのです。
自分の生き方は自分が決めるのであって、他人に了承してもらうものではないので、違いは違いとして認めればよいだけの話です。そうなれば、自分の生き方を他人に認めて貰おうとすることなどどうでもよく、それよりも自分の内なる心の動きに焦点を当てるほうが自分を生きることに繫がると思います。
それぞれの人の生き方、人生、価値観などはその人のものであるから、他人がとやかく言うものではないと、最近はとみに感じ始めました。誹謗中傷でも、何でも反対でも、そもそもが人は内なる自分に対自すべきであって、外の人のことをとやかく言ったり、自分の考えに引っ張り込もうとするのが、おかしいのではないかと思います。その時の自分は、しあわせでもないし、内なる自分の問題が形を変えて出てきているのかもしれません。
人それぞれ考え方も生き方も違うと認めたとき、身も心も軽くなり違いは違いとして受け流すことができるようになりました。それと同時に、自分の内なる心のままに生きようとしている自分がありました。それは、外のものを手放した時に内なる自分を掴むことができた時でもありました。
そうなった時に初めて、見えない繋がりを感じることができ、ご縁の中で自分を生かすことができるようになるのではないかと思うようになりました。
何事も表裏一体ですが、人生や考え方も裏表でバランスが取れるのだと思います。自分ばかりでもダメ出し相手ばかりでもダメで、相手を受け入れるから自分も主張できるし、相手を認めるから自分自身も認められるのだと思います。
外側は内側を知るために存在しているし、外に感じたものを自分に向けた時、見えなかったものが見えてくるようになるのだと思います。
結局は内なる自分の心に素自直に従うのが、自分を生きるということになるのだと思います。
じゃ、また明日!