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人は、自分が与える側と、自分が与えられる側の両面あると思います。
「自分には与えるものがない!」と、私も思っていましたが、
無意識で与えている場合もあるようです。
声掛けをするだけでも相手が元氣になる場合もあるし、
家族のためにお弁当を作るだけでも、相手に与えているという事になるし。
何かプレゼントして相手が喜んでくれると、気持ちまで与えていることになるし。
また、反対に自分もそうされている時があると思います。
大まかに言えば、
自分の欲望の段階、自己実現の段階は「与えられる側」で、
貢献の段階、使命の段階では「与える側」になるようです。
これは「想い」の先が「自分」なのか「他人」なのかの違いです。
最初は誰でも「想い」の先は自分だと思います。
しかし、自分の為をやりつくせば、いつしか他人の為、他人への貢献に
変化していっていると思います。
そして、最初は「目に見える物質的なものの与える」から、
段々と「目に見えないマインド的な与える」に変わって行くのだと思います。
目に見えるものはわかりやすいので、相手からも「ありがとう」を言って貰えます。
よって、自分に「徳」が積みやすいです。
反対に「マインド的な与える」は、なかなか目に見えなくて、
わかりにくいので、お披露目が出来ないようです。
しかし、それも積んでいくと「徳を積む」と言われるように、人々にも伝わるし
結果的には自分に跳ね返ってくるのだと思います。
同じ行動をしたとしても「どういう想いで生きているか」という違いが
出てくると思います。
食事1つをとってみても、お米や野菜を作ってくれた農家の方々に感謝しながら
頂くのと、何も考えずにお腹の満足だけを思って頂くのと、その想いの違いが
行動に現れるのだと思います。
作って下さった農家の方々を想って頂くと、残すと云うことが出来なくなり、
お米1粒でも残さずに綺麗に食べようとします。
よって、外食をしても残すという事はあまりできなくなります。
私は小さい頃は偏食気味でよく残していました。
しかし、自分で料理を作るようになってから、偏食はしなくなり残さなくなりました。
あるレストランに行った時、スープが時間を掛けて作られているのがよくわかったし、
非常に美味しかったから、お皿についているスープをパンで綺麗にふき取って
頂きました。
後日聞いた話ですが、そのお皿を見て厨房では「このお皿、誰か洗ったかどうか」と
いう話になっていたようです。
以前荒っぽい食べ方をしていた時とはかなり違ってきていました。
料理人の方は、お客様の食べ残しでその料理の満足度を感じるようです。
よって、お皿を見て私だとわかると言われました。
これも私からすれば、美味しいものを提供して頂いて「ありがとございます」という、
感謝を伝えているつもりでしたが、そのメッセージを厨房ではきっちりと、
受け取って下さっていたようです。
こんな些細な事でも、お料理を「与えて頂き」その感動をお皿の綺麗さで
感謝として「与えている」
見えていない厨房の方々とのキャッチボールです。
相手が目の前にいなくても、いつでも「誰かへの感謝」や「誰かのしあわせを願う」ことは
出来ると思います。
いつも与えられる側ばかりではなく「誰かのしあわせを願う」という与える側に
なっていれば、自分自身もしあわせになっていくのだと思います。
じゃ、また明日!