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今日もまた、面白い文章を見つけたので、昨日の続きのようになります。
今、ちょうど雨が降っています。所により、警報も出ています。
明日、海水浴やキャンプに行く人にとっては「嫌な雨」です。早く止んで欲しいと思います。
農家の人にとっては、これで田んぼや畑に水が潤う「嬉しい雨」です。もう少し降り続いて欲しいと思います。
今、このblogを書いている天気は「雨」というのが事実です。
雨に「嫌な雨」も「嬉しい雨」もありません。
それは、その人の受け取り方で真実が変わってしまっているということです。
1+1=2 2+0=2 3-1=2 2x1=2 4÷2=2 10-8=2 100-98=2
上記の「2が事実」で、無限に組み合わせられる「数式が真実」です。
という事は、事実は1つであり、真実は幾通りもあるという事です。
数学においては答え「2」が結論となりますが、ものの見方考え方においては、そこで結論として終わりません。
著者はそれを哲学と言われていますが、哲学においては、事実は問題文でしかならず「事実から真実の探求が始まる」と言われています。
学校教育の国語では、事実は唯一の答えのように扱われる。
故に「事実を提示しただけ」で「真実を共有したつもり」になる人間が現れる。(はい、私がこのタイプです)
自分と違う論が目の前にあれば、それを否定することで、大抵の人間は持論を展開してくれる。(はい、私です)
筆者は「その真実こそ、ぼくの興味本位である。そこの対話のみを他人に求めている。」と言われています。
そして「共感なんてくそくらえであると切り捨てている節さえあるのは、アンチテーゼを発することでこそ、
相手を深堀出来ると信じているからだ。」
「ぼくには、己の知的好奇心を満たす以外に、他人と関わろうとする心がない。」
として「こんな思考回路の人間は、そうそういないように感じる。故に生きづらい。」
しかし「こういう人間もいるのだと、皆々様にはご忠告しておきたい次第である。」と、言われています。
対話は、事実から真実の探求によって始まるものだと、対話の入り口を教えて貰ったような気がしました。
そして、こういうタイプの人間がいるからこそ、私のようなタイプの人間が刺激を受けるのだと思った次第です。
じゃ、また!