タグ:
私はイマニュエル・カントと言えば名前を聞いたことのあるドイツの哲学者。
くらいしか知りませんでした。
カントによれば、「批判」とは、
否定的に語るという意味ではなく「あらゆる前提を排除して徹底的に考える」
という意味だそうです。
「批判」は世の中のあちこちでうようよしています。
その時はほとんどが否定的に語るだけです。
そしてそれが誹謗中傷に繋がります。
しかし、「あらゆる前提を排除して徹底的に考える」となれば、
「批判」は考えるきっかけを与えてくれるものなのだと思いました。
カントは3つの主要な著作を通じて、
「人間とは何か」という問いに向き合っていたようです。
『純粋理性批判』では、人間は何を知ることができるか。
『実践理性批判』では、人間は何をすべきか。
『判断力批判』 では、人間は何を望んでいるか。
そして、人間が世界を認識する時には、常に「感性・悟性・理性」という3つの
フィルターがかかっている、と。
「感性」は、物事を直感的に捉える力
「悟性」は、情報を整理して判断する力
「理性」は、思考する力
私は直感型なので、何事も直感で捉え、時には他の可能性も見ようとするのですが、
結局は、直感で捉えたことに戻ってしまうのです。
カントは「理性で思考する」という事を、
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだ」と言っています。
これは他の分野でも聞くことがありますが、この思考の変換は時間が掛かりそうです。
例えば道でお婆さんが重たい荷物を持っていると「助けなければ」と思い手助けします。
それは自分の純粋な意識から出た行動だと思います。
しかし、最初から「もしも助けたら、お礼の言葉やお金など見返りがあるかも知れない。
見返りがあるなら助けてあげよう」と思った時、そこには見返りという条件付きの
行動になってしまいます。
そして、人間が自由になる為には、純粋な気持ちに従って自律的に生きることが
重要だと説いています。
純粋意識というのは瞑想でも辿りつく場所なのですが、純粋意識から出た行動は、
欲望からも自由になっていると思います。
「人格」とは、自律的に行動する人のことで、
カントは、自分や他者の人格を手段として用いてはならず、
常に目的として扱うべきであると主張しました。
人は本来、自由であるべきだと思います。
それが思いのままにならないのは、純粋意識から遠ざかっているからだと思います。
「美」を感じるのもまた、人間が対象に対する利害関係がないことが必要で、
だからこそ、純粋な気持ちを忘れてはいけないと思います。
カントによれば、私たちは対象と利害関係がない時に、
普遍的で他者と共有可能な「美」を感じることができるという事です。
ある方が書いておられましたが、
「誰かと気持ちが通じ合う経験は、人生の幸福度を上げてくれそうです」
というのには共感します。
じゃ、また明日!