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「実ほど 頭を垂れる 稲穂かな」は、秋になって稲穂の実が実るほど、
その重さで穂先が地面に垂れて行くのに例えて、
「学問や技能が深まると、他人に対してますます謙虚になること」
という諺です。
ブッダは、徳の高い高潔な人ほど、態度は低く言葉使いも丁寧なもの。
と説いています
小学生や中学生の時、先生が言われていたのを思い出します。
「みのる」と言うのは、成長という事だと思うのですが、
成長とは新たな「問い」の発見でもあると思います。
同じものを見ていても、ただ何となく見ているのと、疑問を持って見て行くのとは
その見え方が全然違って来るのです。
1つの対象と向き合った時に、どれだけの「問い」が自分の中から出てくるかが、
重要になってきます。
その対処に関心が無ければ、問いは生まれては来ません。
その対象に関心があるから「なぜ?」と、問いが生まれてくるのです。
社会に出て仕事をし始めた頃は、書類を作成しても誤字脱字が多く、
見直しているはずなのに、それでも誤字脱字が出てきていました。
今から思えば、書類1枚にも自分の拘りが薄かったのだと思います。
このblogをUPする前に読み直しているのですが、それでも誤字脱字を
発見する時があります。
向き合っている仕事に対して、自分がどのくらい気付きがあり「問い」を
持っているかが、社会人として「仕事が出来る」かどうかの判断材料にも
なりかねません。
この「問い」は仕事に限らず、習い事全般に通じると思います。
スポーツにしても出来なかった事が出来たと思ったら、崩れてまた出来なくなる。
これの繰り返しのようです。
この、また出来なくなった状態が「あらたな問い」になるのだと思います。
よって、この「問い」の数が増えれば増えるほど「自分が出来ていない」と
いう事を痛感するのです。
この痛感が先の稲穂が垂れて行く状態と同じだと思います。
対象が「見えてくる」と、自分や世界が今までより少し大きくなったように
感じてくると思います。
大きくなればまた、そこでの問いが出てくるのです。
結局、学べば学ぶほど、自然と謙虚になって行くのだと思います。
実ほど 頭を垂れる 稲穂かな
この稲穂の謙虚さを身に付けたいと思います。
じゃ、また明日!